What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

「ステーキ」と「ミルク」をオーダーできなかったニッパーの必殺技

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口
 その土地固着のネイティブ・ランゲージについて知る一番早い方法は国立国語研究所編纂の「日本言語地図」を眺めることだ。同一の語でも東日本と西日本との空間的な差異によって異なる発音がみられる。同様にアメリカでも地域により大きな隔たりがある。我々がごく日常的に知っている簡単な英語の単語でもイントネーションの置きかた次第で何も通じないことがある。もし、そうなった場合、あなたはどうするであろうか?
ニッパー国からアメリカへ
 日本のある県出身の力士が事業に失敗して億単位の借金を背負ってしまった。捨てる神あらば拾う神ありである。第二の人生をもう一度と昔とったキネヅカの肉体で何とか一矢を報いようとした。借金で裸になったので、また、裸で出直すことにした。ここで、本人の名誉のためにも、日本国民の名誉のためにも本名の公表は避けよう。とにかく、角界で14回も「黄金の左」で優勝したセレブで好きな食べ物は「マグロ」で、好みの女性タイプは「金髪」であった。ついにプロレス界デビューのためトレーニングと体力増強を兼ね、アメリカへ強制的に連行されてきた。
 その町は地理上で中西部に属し、その昔、国中のアイアン・ホース(鉄の馬=鉄道)の大中継点であったが飛行機という新しい交通機関の出現で町はさびれ、昔の繁栄の面影はかすかにブルースか洪水かで名を残すのみであった。アーリー・ショウワ・ピリオドの日本で「浪曲セントルイス・ブルース」として「川のかなたはバージニア、川のこなたはケンタッキーで、花のブルースはらはらと、いかだに散るやミシシッピー、セントルイスかブルースか‥‥」と歌われていた程だったのに、、。
 そんな町のゲートウェイ・アーチをかすめながら出迎えの白人親方のジープに便乗して車はグングンとMO州の田舎の、さらに田舎の村をめざして進んでいった。初夏の強い光線で、大動脈と称される雄大ミシシッピー川の流れはキラキラと輝いていた。なだらかな丘をいくつも越え、放牧の牛が歓迎の意を表してのどかに首をふっていた。地図にも記載されていない小さな人口二千人の村なので、便宣上、ABC村と呼んでおこう。この村のメイン・ストリートにはモーテル一宿と雑貨店と郵便局とガソリン・スタンドが点在しているだけである。しかるに、モーテルといってもこの村で唯一のヴィレッジ・ファーマーの社交場であり、娯楽場であり、着飾ってディナーを食べにいくところである。
 このモーテルへ、その愛嬌のある元力士が投宿した。帰国までの五か月間、ここを常宿として親方宅へ通い特訓してプロレスを覚え、また、太ったボディを絞って筋肉質にし、「ステーキ」と「ミルク」でスタミナをつけよと日本で命令されてきた。
モーウモーウ!スーテーイーキー!
 到着したその夜、空腹をかかえたので大きな裸足をゴム製ビーチ・サンダルの上へ載せ、ジャージ姿で、モーテル二階の部屋より下へ降りてきた。
 窓には白いレースのカーテンがかかり、白いペンキのレストラン内は夕食どきとあって、各テーブルは子供連れの家族や老人カップルでほぼ満席。その人は祖国の歴史2千年の威厳をもって空いている席をみつけると一人で勝手にドカーンと座った。長い時間待たされた気がした。やっと白いエプロンに白いブラウス、白いメガネをかけて、いかにも家庭ではクリスチャン・サイエンス・モニターを購読し、毎日教会へ通っているようで、モラルに厳格そうなおばちゃんウェイトレスがようやく注文をとりにやって来た。そのとき、視線をフロアーへ落とすと眉間に一文字の深いシワを刻み、卑下のマナコがありありとよこぎったが、その人には分かるはずもなかった。それよりただアルファベットの列記されたメニューを見てもチンプンカンプンである。背に腹はかえられない。意気昂然と大きなお国ナマリの日本語で「すーてーいーきー!」と叫んだ。念の為もう一度やってみた。意味がまったく通じない。おばちゃんは両手広げて肩をすくめ、事務的に早口で「アイウエオカキクケコ」とかなんとか言ったまま立っている。腹は増々へるし、何を言っているのかまるっきり英語がワカラナイ。四面楚歌である。
 突如、電光石火、名案が頭に浮かんだ!「ステーキ」は牛だから「モーウモーウ」だ。おもむろに椅子を立ち身振りよろしくゼスチャーで表現することにした。ニッパーの伝統、歌舞伎役者顔まけのスーパー・リアリズムで迫ったのである。両手を拳骨のように握り、それぞれの手を顔の両こめかみのところへ持っていき人指し指だけを伸ばして角のように見立てて、腰を曲げ、頭を下げ、二、三ステップを踏んで「モーウモーウ!スーテーイーキー!」と牛語を叫んだ。あっけにとられたおばちゃんは手のひらを口元へもっていき最大の微笑でもってエッキスキューズをした。まわりでこの様子を見ていた客達にもくすくす笑いが漏れ、レストラン全員の注目を浴び国際親善の波が店内に充満した。片隅では老眼鏡をかけた老夫妻が「あの人、どこの産地かしら、ポテトならアイダホだけど‥‥それとも、ニューヨークのブロンクスのワイルド・ライフ・コンサベーション・パークから逃げてきたのかしら‥‥?」とかささやいていた。
 ともかく、どうやら「ステーキ」は注文できたらしい。冷汗三斗。しかし、まだ「ミルク」のオーダーが残っていた。またもニッパー的な黄色い発音で一直線に「みーるーく!」と叫んだ。再び不思議な顔をされた。もう一度、席を立った。テレ笑い顔を浮かべて、脳髄の奥を必死で詮索しゼスチャーのコードをやっとひっぱり出した。子供が母親の母乳を吸っている場面を思い出した。頭の上から大きな乳房が垂れ下がってミルクを飲むようなゼチャーで両手を口元へもっていき、漏斗の形にして喉をゴクン〜ゴクン〜と鳴らした。まるで絵に描いた餅ならぬ、乳飲みであった。千葉の女チチシボリ的光景を完璧なパフォーマンスで仕上げたのだ(千葉の皆様、ごめんなさい!)。
 だが、それはこのおばちゃんにとって全裸を突然に陳列されたにも等しかった。軽蔑のマナコを通り過ぎて顔面蒼白、今にも眼球が飛びだし、腰にピストルがあれば引き金をひかんばかりのギョウソウとなった。「オーマイ、ゴッド!」と絶句して無意識に手を胸にやり十字切ってハート・アタック寸前で倒れそうになった。客たちはこの様子を一挙一動、かたずをのんで見守っていた。ジュースを飲もうとしていた人は空中にグラスを持ったまま、キスを交わしていたヤング・カップルは唇を合わせたまま、まるで、全員がストップ・モーションのように、一瞬、この全空間がフリーズした。やがて奥のキッチンから白帽子の白人シェフ、褐色のバス・ボーイまでが顔を出して軽蔑的なまなざしを向けた。
 この噂は夕刻のディナー時、およそ八時頃にもかかわらず、有線放送かどんな媒体のメディアかしらないが、きっと電話から電話の口コミであろう、村中にあっという間に知れわたった。親方が青い顔をして飛んできて、何とかその場を収めた。それより、こうしてこの夜、やっと餓死をまぬがれ、「ステーキ」と「ミルク」を口にすることが出来たのでした。
 それ以来すっかりメイってしまったか、この人は部屋に炊飯器とミニ・バー用の冷蔵庫を買って自炊生活をはじめた。
 ところで、このレストランでも年に一人、いや十年に一人くるかこないかのニッパーに備えて、和英辞書が緊急時の救急薬のように置かれたらしい。
 畢竟。どうもニッパーの国民性は、もう一つ、ソフィスティケイションに欠けるきらいがあるようですな。エッヘン!
(1993年10月15日付、ニューヨーク情報誌OCSNEWS掲載)