What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

故アントニオ猪木さんと同行の思いで海外取材追悼記!(1)

筆者は1980年代から2010年代まで、ニューヨークに居住して、主に、ベースボールマガジン社の「週刊プロレス」の通信員をしていた。
先週の10月1日にアメリカ人プロレスライターから突然メールが届いた。「Wrestling News/ NJPW founder/ wrestling icon Antonio Inoki passed away」とあり、パソコンを開けたら、猪木さんの悲報が大きく伝えられていた。猪木さんとはこれまでに9回取材同行した。

最初の取材は1983年8月「猪木カルガリー遠征」
1983年8月、猪木さんは妻の倍賞美津子さんと一人娘の寛子ちゃんを同伴して、カナダのカルガリーに遠征した。80年に新日本プロレスに入門した付き人の若手高田延彦(当時21才)が同行した。高田が娘さんをボートに乗せて湖の沖まで行き、なかなか帰ってこないので、猪木夫婦が大変心配した。やがて戻ってきた高田を、皆の報道陣の前で強烈な制裁ビンタを喰らわし、我々を驚かせた。

2回目取材「カリブ海新婚旅行」
1991年1月5日、猪木さんは豪華客船ノルウェー号で戸倉尚美さんと結婚式を行うため、仲人役の新日本プロレスの新間営業本部長を従えて、フロリダ州マイヤミ港にいた。彼女は飛行機内で隣席になって知り合った一般人の方だった。我々は乗船出来なかったので、船前で写真撮影した。
1989年6月12日に猪木さん(46才)は参院選出馬表明し、彼女(当時24才)と3度目の結婚をした。7月26日には初プロレスラー出身として当選し政界に入り、「スポーツ平和党」を設立して政界に新風を巻き起こした。


3回目取材「レーガン道場視察」
1991年9月、猪木のミネアポリスレーガン道場視察。
 ブラッド・レイガンはミネソタ州ミネアポリス出身の元オリンピンアンで地元AWAで活躍してから83年に全日本プロレスで初来日し、1989年から新日本プロレスの常連外人選手となり、同時期にプロレス・スクール「レーガン道場」を開校して、多くのレスラーを育てていた。
 フィンランド出身のトニー・ホームは1990年10月25日に、新日本プロレスに初来日して異格闘技戦に勝利してから、91年12月のビガロ戦に備えて、レーガン道場でレスラー転向の特訓を受けていた。
猪木さんは、その特訓視察のためにミネアポリスへきた。レーガン道場で、生徒たちに混じって猪木さんも、練習に励み、丸木の上下持ち上げ運動からイランの運動器具のコシティをおこなった。それから、突然、マラソン6キロを早足で走り出し、同行の名レフェリーのタイガー服部さんも後を追ったが追いつけなくて、猪木さんはそれほど体調が好調であった。
 夜には1990年に新日本初参戦したロードウォリアーズのアニマルがブッキングのお礼に我々一行を大邸宅に招待してくれて、地下の巨大な大型のテレビ及びビデオ・スクリーンに驚かせられた。