What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

ベルリンの壁崩壊から30年。 つながった西と東。

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壁の崩れたベルリン
高さ約4メートル。見上げるような壁の向こうは禁断の世界だった。西側の人々は足場を築き、ときどき壁越しに東側をのぞいた。同じ顔の同じ言葉を話しひとびとが暮らすアパートの窓がみえてきた。その壁が崩れた。崩れた壁のすき間から東側の逃亡者を見張る監視塔がみえた。

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世界の現場ルポ ベルリンの壁が崩れた!
 ソ連領内小民族国家の独立運動ハンガリーポーランドの反体制派の台頭、東ドイツの出国・報道の自由化、自由選挙、ブルガリア市民運動チェコの史上最大のでゼネストなど、ゴルバチョフペレストロイカによる東欧の市民レベルの変革エネルギーはピークになりつつある。
 その中で最も劇的なシーンは1989年11月9日午後5時半ごろ(ドイツ時間)に起こった。東ドイツが国境を開き、市民を東西にひき裂いていたベルリンの壁の一部が、突然崩れ落とされたものだ。
 抱き合う東西ベルリン市民、大挙して西を訪れる東の市民、歴史的瞬間を体験するために訪れた。写真家・中山ケイジによるルポルタージである。

西ベルリンへの旅
 1989年11月19日、壁を通過したベルリンに着いた。ニューヨークより飛行機でオランダのアムステルダムまで、所要時間7時間(往復478USドル)。アムステルダムのアムスフート駅でロンドン始発のユーロ・シティー夜行列車に飛び乗り、ハノーバー経由して西ベルリン・ツォー駅まで10時間の旅である。2等料金往復301ギルデン(約150USドル)。3ヵ国の車内税関をパスした。濃い霧がプロシアの森に流れ、北緯はカラフトに等しく、外は白い息になるほど寒そうだ。
ベルリーナに言わせると、ベルリンは世界で最も退屈な所から、世界で最もエキサイティングな所へ一夜にして変貌してしまった。ゴルバチョフの唱えるペレストロイカの波が東ドイツにも押し寄せ、クレンツ政権の大改革によって28年存在していたベルリンの壁に風穴が通され、世界政治の激震地となっている。更に、汽車で8時間行くと、第二の激震地チェコスロバキアプラハへ到着する。

壁を目の前に
 11月20日、正午、壁を見に行った。東ドイツの真ん中に、大海に浮かぶ島のように存在するベルリン。そのベルリン市の真ん中を貫いて東西を分断しているイデオロギーの壁。牢獄のように無表情な表面にニューヨークの地下鉄よりすごい落書きがはびこっている。第二次世界大戦で敗れたドイツは、45年間2月の米英ソの首脳が顔をそろえたヤルタ会談の協定で、仏国も含めた四連合国に分割管理されることになった。ソ連統治下に置かれたのが現在の東ドイツと東ベルリンである。48年、ソ連は東ベルリン封鎖を開始。49年にはドイツはドイツ連邦共和国(西)とドイツ民主共和国(東)の二国に分かれた。ベルリン境界に壁が構築され始めたのは61年8月13日。12月までには全長160キロの壁が完成して東西の交通が遮断された。
 壁を隔てて分かれてしまった家族、友人、知人同士は、以来この世で最も遠い存在になった。
 西ドイツ側の推定では、今までに壁を乗り越えて東から西への脱出に成功した人は約5000人、191人が射殺あるいは地雷に触れて死亡、4000人が逃亡に失敗して服役しているといわれる。
 東側では、壁から30メートルは無人地帯となっていて、昼間は双眼鏡、夜はサーチライトが監視の目を凝らしている。警備には機関銃と警察犬がパトロールし、地雷が埋められている。警備兵は脱出者がいれば即座に射殺する様に命令されている。
 ところが今年の初めからこの命令は取り消された。東ベルリンのあるエンジニアは手製のグライダーで壁を飛び越え、また、ある人はベットシーツとシャワーカーテンをより集めて作った気球で西ベルリンに飛び降りてきた。そして、トンネルを掘って脱出してきた人は147人もいる。ついに、1989年11月9日午後7時4分(ドイツ時間)、突然、ポツダム広場を通る壁が10メートルに渡って崩された。


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 こうして幾多の悲しみを生んだ壁が事実上形骸化した。地元民と観光客がチズルとハンマーを持って、「アップ・アゲインスト・ウォール」の合言葉を叫びながら、カナ音高く穴を開けている。
 政治イデオロギーのシンボル、逃亡と死のドラマの現場、スパイ小説の舞台であった壁のかけらは、いまは月の石のように博物館入りのアイテムとなり、記念品として大セール中である。
 一つの時代が終わろうとしている。

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ポツダム広場
 1989年11月21日、午後2時、手足が凍りつくような寒さ中で、案内所で貰った地図を手がかりに、歩いて、駅前の繁華街のクーダム通りから、カラヤンが指揮したベルリン・フィルハーモニー会館を抜けて、国立図書館を通過してポツダム広場へでた。
 戦前、パリとモスクワの中間に位置するベルリンはヨーロッパで有数の工業都市であった。なかでもポツダム広場は市街地の中心をなしていた。しかし、第二次世界大戦の爆撃でこっぱみじんに破壊され、現在も荒れ地の中に高い壁がそそりたっているだけの寂し場所である。しかし、この壁の一部を幅10メートルに渡って、11月9日午後5時半ごろに東の兵隊50人が見守るなかで、作業員が撤去した。また、他に6ケ所が同様な新しい東西ベルリンの通過点となった。プレハブ作りの土産物店や屋台が出現し、西ベルリン観光のニュー・スポットとなり、両国の警備兵が仲良く並び、一人ひとり通過車のパスポートを検査している。壁は高さ4メートル、幅は手のひらを広げてもとどかなくて、約30センチはありそうだ。東西ベルリンの境界だけでも26キロに渡り、西ベルリンの周囲は全長160キロが取り囲んでいる、といわれる。
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ブランデンブルク門
 11月21日、午後4時。ポツダム広場から雑木林の壁に沿って徒歩10分で、巨大な大門が東ベルリンの方を向いて出現する。ロック・コンサートが開かれ、記念のバッジが売られ、人波でごったがえしている。いわずと知れた東西分割の表徴であり、プロイセン帝国時代からのベルリンの表玄関であるブランデンブルク門である。
 遠く1806年にナポレオンが凱旋し、1901年オランダ女王が通過し、1933年第三帝国ナチス・ドイツの茶色シャツ隊が行進し、63年アメリカ大統領ケネディが視察し、87年レーガン大統領が見学した。しかし、幾多の歴史の刻印をシールしたこの門が、今年の11月9日をもって新たな融合のシンボルに変わりつつある。何千人もの西ベルリン市民がこの門の壁によじのぼり、国境の解放を祝ったのだ。

東ベルリン見学
 11月22日。地下鉄コチェスター駅前のチェックポイント、チャーリー検問所から東ベルリン・エックスカーションを試みる。東から自動車がひっきりなしに西へ入ってくる。連合軍アメリカ、イギリス、フランスの駐屯所の横の歩道を通り、ビザ検問所へ入ると観光客で長い行列ができている。入国を拒否された人が逆戻りしていく。
 日本国発給のパスポートを提示すると、一日滞在のスタンプがその場で発行され、5マルク(約3USドル)を徴収される。金属探知機のドアをくぐり、次の部屋で強制的両替25マルクを支払いドイツ・デモクラティック・リパブリック(DDR)発行の小さな紙幣とアルミの硬貨を受け取ると通関が完了だ。
 広い4車線の大通りに出ると、初めて目に付いたのがチャイニーズ・レストランである。そして、ミゼットのようなソ連小型自動車ラダが頻繁に走っている。板橋の高島団地のような高層住宅が道に沿って両側に立ち並び、スーパー・マーケットをガラス越しに覗いてみると、長い行列を作っている。スナックで無愛想な国家公務員のウェートレスに壁に掲げてあるメニューを指さすと、肉の盛り合わせがきた。
 壁に沿って雪のぬかり道をポツダム広場の検問所まで歩く。東側より眺めるベルリンの壁はまっさらで、人が触れた気配は何もなく、落書きで埋め尽くされた西側の壁とあまりにも対照的である。バス代10ぺニング(17USセント)で、町の中心地フリードリヒシュトラッセまで乗車する。流れゆく雲間からダンゴの串刺しのような観光テレビ塔が姿を見せる。ウンター・デン・リンデン通りの一部にはソ連大使館が’そびて立ち、ピストルとウォーキー・トーキーを下げた警備兵がいる。地図を見ると、この反対側に日本大使館があるはずであるが分からない。日本の全貿易高に占める東ドイツの割合は、わずか0.05%であり、貿易面ではまだ遥かに遠い国である。

西ベルリンの町の変貌
 壁の開通と同時に、東ベルリン人口120万の半分くらいが西ベルリンに繰り出したそうである。初めて西ドイツを訪問した人は歓迎費100マルク(約55USドル)を貰い、ショツピングに費やした。バナナ、みかんが毛の生えたように売れ、列車の切符売り場には長い行列ができ、西ドイツの代表的な雑誌「スターン」は表紙に東京のラッシュにも劣らぬ、地下鉄の混雑風景を掲載し、タクシーの運転手は、まるで、トウキョウだよと嘆く。祝祭の季節がうねりあげている。

ブッシュ大統領の発言
 ベルリンの壁が撤去されて歓迎の意を表しながらも、まだソ連を警戒し、「ベルリンの壁が’取り除かれても、まだ、鉄の壁がある」と強調する。冷戦のしこりはいつまで続くのか、、?