What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

故アントニオ猪木さんと同行の思いで海外取材追悼記!(2)

4回目取材、デンバーで「猪木&アリ歴史的再会」
1994年8月1日(現地時間)アメリカ、コロラド州デンバーデンバー・ホテルにて、猪木とアリが6年ぶりに歴史的再会を果たした。
 この日、新日本プロレス側からは猪木さん、レスラーのマサ斉藤、永島企画部長と通訳のケン田島氏が現地入りして、テレビ撮影でホテルにいるアリとの対面へ向かった。今回のアリとの交渉をとりもったWCW幹部エリック・ビショップ夫妻が出迎えてくれた。ロビーではパーキンソン病を患っていたアリが得意のクラッシックをピアノ演奏していて、そばには夫人が立っていた。猪木さんが近づくとアリはその存在に気づき、驚いて立ち上がると、お互いの再会に嬉しそうに抱き合って、自然とパンチの姿勢をとった。ブリティッシュ発音の通訳田島さんを介して会談に入り、猪木さんは世界平和の理念について30分語った。そして、来年の北朝鮮での大イベントにアリの参加要請したところ、アリもこれを快諾。猪木さんはコメントで「アリも私も目指しているところは一緒で世界平和の実現で一致している」と述べた。

5回目取材、「猪木&小川直也・オランダ遠征」
1997年10月25日(現地時間)「アントンとOちゃんが世界最大アムステルダム ”飾り窓”風俗街を散歩!」

売春婦とプロレスラーは人類最古の職業である。(筆者)
 アムステルダムには、世界の文明国の中で最大の官庁公認 ”レッド・ディストリック”(赤線区=売春街)がある。
 初めてオランダ・アムステルダムを訪問したのは、80年代にオットー・ワンツ主宰 CWAドイツ・ブレーメン大会後に立ち寄ったときであった。それから90年代始めに、当時、前田明 ”リングス”でオランダ出身の世界サンボ・チャンピオンのクリス・ドールマンが王者となった時で、アムステルダムのドールマン道場がこの ”飾り窓”地区の運河に面したビルの6階にあった。取材後、この町の知名人で顔効きドールマンが風俗通りをくまなく案内してくれた。次ぎに訪問したのが97年10月、アントニオ猪木さんと小川選手たちとであった。
 1997年10月25日、猪木さんと佐山(タイガーマスク)と新日本プロレス取締役で、通称 ”ゴマシオ親父”の永島勝司さんと、小川直也選手が3メートル程の長い”闘魂棒”をかついでスキポール空港に到着。小川はこの年に猪木が設立したUFO (世界格闘技連盟) に入団してプロ格闘家に転向していた。それ以来、猪木さんの付人を務めて、4月12日のデビュー戦で橋本を STO から裸絞めで初勝利していた。いつでも、この ”格闘三銃士”は行動をともにして格闘技が盛んなオランダ遠征へやってきた。10月シリーズから新日本プロレスの本隊の巡業に帯同していた小川にとって ”卒業旅行”であり時間に余裕のあるのんびり旅であった。次ぎの日の午前中に市内の観光名所 ”アステルダム・パークの風車”や ”画家レンブランド像”を見学した。夜はバート・コップスJr・ジムでミュンヘン五輪柔道2階級制覇の ”赤鬼”ことウィリエム・ルスカが小川選手と柔道着でスパーリングを行う予定となっていた。その前に市内のレストランでランチをとった。食後に猪木さんを先頭に日本人総勢10名が大名行列のごとくぞろぞろと散歩した。運河に面したその一帯は昼間からケバケバしいネオンサインが点滅し、世界各地の男女の観光客が好奇心旺盛に見学している飾り窓地区へ足を踏み入れ、セックス・ミュージアムマリファナミュージアム、ポルノショップ前を通過した。そこら中の飾り窓小部屋からセクシーな娼婦が投げキスやウインクを飛ばしてきて、公然と客と交渉してカーテンが閉められているガラス越し部屋ではまさにスワ~~ヒヒ~と行為の最中である。猪木さんもゆっくりと目尻を下げて観光した。「この金髪女性の腰つきはいいネ」などと言い、”Oちゃん”こと小川選手が嬉しそうに聞いている。この店が面白そうだといっては ”大人の店”へ入り、巨大な模造男根を手にしながら猪木さんは値段を聞いた。ポルノショップ店を出てから、一行は屋外のコーヒーショップのテーブルに座って、Y談に花を咲かせて、猪木さんは、「うちの若いヤツらは、気軽に “ヌキ”でソープとかに行ってるらしいが、オレはそんな場所にには行けないからね、、」としんみりと口にすると、佐山さんも深く同情した顔つきで、相槌を打ち「それならマスクをかぶったらいいのでは、、?」と言うと「ティグレ*、それは名案だね」と猪木さんが真剣に返答したので、我々は大笑いした。すると遠くで日本人観光客が「キャ~~ア、イノキだ!」といって騒いでいる。場所が場所だけにファンの方は気恥ずかしさを感じてか声をかけていいのか迷っている。こういう場合、猪木さんは実に泰然自若として悠然とかまえている。その内に勇敢な一人の日本の若者がおもむろに猪木さんに近づいてノートを差し出してサインをせがんだ。猪木さんはニコニコと微笑しながら握手して、力強く”闘魂”とサインをすると喜びいさんで早足で立ち去った。そして、ワイ雑な風俗街をおのぼりさん丸出しで散歩を続けた。我々も、また、鼻の下を長くのばしながら従った。

*、猪木さんはタイガーマスクこと佐山に対してティグレ(スペイン語 “トラ”の意味)と呼んでいた。


6回目取材「カリーフラワー・クラブ懇親会」
2001年2月10日(現地時間)、アメリカ、ネバダ州ラスベガス、リビエラ・ホテルで「カリフラワーアレイ・クラブ」第35回記念懇親会が開催された。ロス在住の猪木さんは特訓中の安田忠夫を連れて出席して、栄誉なる格闘技賞を受賞。ファンやレスラーたち約500人が出席して、猪木さんは往年のレジェンドのデストロイヤー、ニック・ボックウインクル、スチュ・ハート等と写真に収まった。

故アントニオ猪木さんと同行の思いで海外取材追悼記!(1)

筆者は1980年代から2010年代まで、ニューヨークに居住して、主に、ベースボールマガジン社の「週刊プロレス」の通信員をしていた。
先週の10月1日にアメリカ人プロレスライターから突然メールが届いた。「Wrestling News/ NJPW founder/ wrestling icon Antonio Inoki passed away」とあり、パソコンを開けたら、猪木さんの悲報が大きく伝えられていた。猪木さんとはこれまでに9回取材同行した。

最初の取材は1983年8月「猪木カルガリー遠征」
1983年8月、猪木さんは妻の倍賞美津子さんと一人娘の寛子ちゃんを同伴して、カナダのカルガリーに遠征した。80年に新日本プロレスに入門した付き人の若手高田延彦(当時21才)が同行した。高田が娘さんをボートに乗せて湖の沖まで行き、なかなか帰ってこないので、猪木夫婦が大変心配した。やがて戻ってきた高田を、皆の報道陣の前で強烈な制裁ビンタを喰らわし、我々を驚かせた。

2回目取材「カリブ海新婚旅行」
1991年1月5日、猪木さんは豪華客船ノルウェー号で戸倉尚美さんと結婚式を行うため、仲人役の新日本プロレスの新間営業本部長を従えて、フロリダ州マイヤミ港にいた。彼女は飛行機内で隣席になって知り合った一般人の方だった。我々は乗船出来なかったので、船前で写真撮影した。
1989年6月12日に猪木さん(46才)は参院選出馬表明し、彼女(当時24才)と3度目の結婚をした。7月26日には初プロレスラー出身として当選し政界に入り、「スポーツ平和党」を設立して政界に新風を巻き起こした。


3回目取材「レーガン道場視察」
1991年9月、猪木のミネアポリスレーガン道場視察。
 ブラッド・レイガンはミネソタ州ミネアポリス出身の元オリンピンアンで地元AWAで活躍してから83年に全日本プロレスで初来日し、1989年から新日本プロレスの常連外人選手となり、同時期にプロレス・スクール「レーガン道場」を開校して、多くのレスラーを育てていた。
 フィンランド出身のトニー・ホームは1990年10月25日に、新日本プロレスに初来日して異格闘技戦に勝利してから、91年12月のビガロ戦に備えて、レーガン道場でレスラー転向の特訓を受けていた。
猪木さんは、その特訓視察のためにミネアポリスへきた。レーガン道場で、生徒たちに混じって猪木さんも、練習に励み、丸木の上下持ち上げ運動からイランの運動器具のコシティをおこなった。それから、突然、マラソン6キロを早足で走り出し、同行の名レフェリーのタイガー服部さんも後を追ったが追いつけなくて、猪木さんはそれほど体調が好調であった。
 夜には1990年に新日本初参戦したロードウォリアーズのアニマルがブッキングのお礼に我々一行を大邸宅に招待してくれて、地下の巨大な大型のテレビ及びビデオ・スクリーンに驚かせられた。

ケンドー・ナガサキ(桜田一男、享年71才)追悼記

1月12日、夜中の2時頃に、インターネットで、ケンドー・ナガサキさんの死亡記事が流れて驚いた。数年前に心臓の手術をしていて、心臓のペースメーカーの取り扱いが原因だったらしい。謹んでご冥福をお祈り致します。
小生が80年代始めにアメリカのプロレス取材を開始して、最も多く撮影し、最も気が合い、最も公私共に懇意にしてもらったレスラーが桜田さんだった。

小生は、昨年の4月に帰国して、即座に桜田さんへ電話を入れた。何でも、昔、居住したノースキャロライナ州シャーロットで開催される、往年のレスラーのサイン会に招待されたそうで大変喜んでいた。夏に電話すると、自伝(辰巳出版)を出版した、という。最近は韓国へ友達と遊びに行き、今は千葉に住んでいるから遊びにこいと誘われた。東京へ行く際はお世話になりますと述べ、電話番号をもらったのが最後の会話であった。

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ケンドー長崎
桜田一男は1948年9月26日、北海道、網走市の網走刑務所内の刑務官寮で生まれた。父親が刑務官勤務していたからだ。
 63年に中学校卒業と同時に大相撲の立浪部屋へ入門。
 71年にプロレス界に入り日本プロレスへ入門。
 73年にジャイアント馬場全日本プロレスに移籍。 
 76年、新人の天龍と共に渡米してテキサス州アマリロのテリトリーに入る。
 77年、ルイジアナ州へ転戦して「ミスター・サクラダ」をリングネームとする。
 78年、カナダのカルガリーに転戦してブレッド・ハートを指導する。
 80年、全日本プロレスへ凱旋帰国。同年、テキサス州ダラスに転戦して中国系チャン・チュンというマスクマンになる。
 82年、フロリダ州タンパへ転戦して「ケンドー・ナガサキ」に改名。同年、全日本プロレスに参戦して「ドリーム・マシン」と名乗る。
 83年、鶴見五郎と共にプエルトリコに初参戦。
 84年、ミネソタ州ミネアポリスAWAに参戦し、当時、WWF が全米進出をスタートさせ、各テリトリーが対抗策を講じて、ガニアがニューヨークで興業を打ち、ナガサキAWA世界ヘビー王者のリック・マテールに連日挑戦して初のナガサキ取材する。日本のマット界では、新日本プロレスから旧UWFジャパンプロレスが生まれて選手不足となり、副社長兼ブッカーの坂口が渡米して日本人のフリーと接触を試みていた。そこで小生が坂口と桜田との会談をニューヨークでセッテイングした。桜田は3年契約をして85年に「ランボー・サクラダ」名で新日に参戦し、その後「ケンドー・ナガサキ」のアメリカ・リング名を名乗る。
 84年頃、NWA 総本山のサウスキャロラウナ州シャーロットのクロケット団体に参戦して、J・J・デュランがマネジャーにつき、テキサス出身の女性と結婚して一男をもうける。
自伝の中でこんな海外生活法を述べている。「アメリカ、カナダ、ドイツ、プエルトリコ、メキシコ、韓国と、俺の場合、遠征に行く先々で必ず彼女を作った。人数は憶えてないが、行った土地の女とは一通りやっている。海外に長くいるから、何年も外国人専門だった。」とある。それを証明するような逸話を3つ紹介してみる。

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ベルリンの壁崩壊から30年。 つながった西と東。

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壁の崩れたベルリン
高さ約4メートル。見上げるような壁の向こうは禁断の世界だった。西側の人々は足場を築き、ときどき壁越しに東側をのぞいた。同じ顔の同じ言葉を話しひとびとが暮らすアパートの窓がみえてきた。その壁が崩れた。崩れた壁のすき間から東側の逃亡者を見張る監視塔がみえた。

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世界の現場ルポ ベルリンの壁が崩れた!
 ソ連領内小民族国家の独立運動ハンガリーポーランドの反体制派の台頭、東ドイツの出国・報道の自由化、自由選挙、ブルガリア市民運動チェコの史上最大のでゼネストなど、ゴルバチョフペレストロイカによる東欧の市民レベルの変革エネルギーはピークになりつつある。
 その中で最も劇的なシーンは1989年11月9日午後5時半ごろ(ドイツ時間)に起こった。東ドイツが国境を開き、市民を東西にひき裂いていたベルリンの壁の一部が、突然崩れ落とされたものだ。
 抱き合う東西ベルリン市民、大挙して西を訪れる東の市民、歴史的瞬間を体験するために訪れた。写真家・中山ケイジによるルポルタージである。

西ベルリンへの旅
 1989年11月19日、壁を通過したベルリンに着いた。ニューヨークより飛行機でオランダのアムステルダムまで、所要時間7時間(往復478USドル)。アムステルダムのアムスフート駅でロンドン始発のユーロ・シティー夜行列車に飛び乗り、ハノーバー経由して西ベルリン・ツォー駅まで10時間の旅である。2等料金往復301ギルデン(約150USドル)。3ヵ国の車内税関をパスした。濃い霧がプロシアの森に流れ、北緯はカラフトに等しく、外は白い息になるほど寒そうだ。
ベルリーナに言わせると、ベルリンは世界で最も退屈な所から、世界で最もエキサイティングな所へ一夜にして変貌してしまった。ゴルバチョフの唱えるペレストロイカの波が東ドイツにも押し寄せ、クレンツ政権の大改革によって28年存在していたベルリンの壁に風穴が通され、世界政治の激震地となっている。更に、汽車で8時間行くと、第二の激震地チェコスロバキアプラハへ到着する。

壁を目の前に
 11月20日、正午、壁を見に行った。東ドイツの真ん中に、大海に浮かぶ島のように存在するベルリン。そのベルリン市の真ん中を貫いて東西を分断しているイデオロギーの壁。牢獄のように無表情な表面にニューヨークの地下鉄よりすごい落書きがはびこっている。第二次世界大戦で敗れたドイツは、45年間2月の米英ソの首脳が顔をそろえたヤルタ会談の協定で、仏国も含めた四連合国に分割管理されることになった。ソ連統治下に置かれたのが現在の東ドイツと東ベルリンである。48年、ソ連は東ベルリン封鎖を開始。49年にはドイツはドイツ連邦共和国(西)とドイツ民主共和国(東)の二国に分かれた。ベルリン境界に壁が構築され始めたのは61年8月13日。12月までには全長160キロの壁が完成して東西の交通が遮断された。
 壁を隔てて分かれてしまった家族、友人、知人同士は、以来この世で最も遠い存在になった。
 西ドイツ側の推定では、今までに壁を乗り越えて東から西への脱出に成功した人は約5000人、191人が射殺あるいは地雷に触れて死亡、4000人が逃亡に失敗して服役しているといわれる。
 東側では、壁から30メートルは無人地帯となっていて、昼間は双眼鏡、夜はサーチライトが監視の目を凝らしている。警備には機関銃と警察犬がパトロールし、地雷が埋められている。警備兵は脱出者がいれば即座に射殺する様に命令されている。
 ところが今年の初めからこの命令は取り消された。東ベルリンのあるエンジニアは手製のグライダーで壁を飛び越え、また、ある人はベットシーツとシャワーカーテンをより集めて作った気球で西ベルリンに飛び降りてきた。そして、トンネルを掘って脱出してきた人は147人もいる。ついに、1989年11月9日午後7時4分(ドイツ時間)、突然、ポツダム広場を通る壁が10メートルに渡って崩された。

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タイガー服部レフェリーがアメリカで最後のレフェリング

f:id:cagen10003:20191105195614j:plain 去る9月28日(現地時間)に新日本プロレス主催の『FIGHTING SPIRIT UNLEASHED』ニューヨーク、マンハッタンセンター大会が開催された。満員の観衆を集めてニューヨークのプロレスファンを唸らせたが、この大会は試合前に「タイガー服部レフェリー、ファイナルカウントセレモニー」が行われて、場内から「サンキュー・タイガー」のコールが’起きた。筆者は1985年3月8日付け「ニューヨーク情報誌 OCSニュース」でタイガー服部氏の前史とも言うべき80年代に渡米した日本レスラーのマサ斎藤キラー・カーンや天龍などのマネジャー時代を記事にしたことがあり、それを、今回、私のブログに再掲載する。

全米唯一の日本人
プロレス・マネージャー
タイガー・ハットリこと、服部正

うちのめし、血を流し、ののしり合って、観客の興奮をよりわきたたせる職業———プロレス。タイガー・ハットリはそのマネージャー。

 格闘技(プロレス・空手・ボクシング・柔道・剣道)はケンカである。ケンカには血はつきものである。そして、血は血を呼ぶ。300ポンド以上のマッスルの山が2個、宙に舞い、ヘッド・ロック(頭蓋締め)、アトミック・ドロップ(原爆固め)、フライング・ボディ・シザース(空中胴締め落とし)、コブラ・ツイスト(大蛇締め)、アイアン・クロー(鉄の爪)が唸りをあげて飛びかう。コーナー・ポストの鉄柱へ頭が、ゴムまりのように激突すると、鮮血が噴水のように高く吹きでる。いきなりどぎつい話で恐縮だが、私たち日本人にとっても無関係な話ではない。それは、同胞のことだから。
 凋落の著しいイギリスのオックスフォード辞典に代わって、権威を帯びてきているアメリカのウェブスター辞典で、“WRESTLING”を調べると2種類に大別される。一つは2000年の歴史をもち、東洋の小島でベースボールの興隆以前に最も関心をよせられたエンターテーメントの一つであった“SUMO.WRESTLING”である。もう一つは200年の歴史をもち、見世物の王様であるサーカス・プログラムの一つとしてあったのが独立して、独特の娯楽としてアメリカで発達した“Professional Wrestling(職業レスリング)”である。すなわち、本文ハ、プロレスニ関スルコトデアル。実名ノ方々ノ名誉ヲ毀損シタ場合、筆者ガ責任ヲ負ウモノデアル。

インタビュー抜群の日の丸マネージャー
 1983年の1月。ミッド・ウエストのツインシティーミネアポリスセントポールは、大雪に見舞われ、見渡す限りの白銀の世界にあった。市の郊外にある高い丘上のシビック・センターでは、血なまぐさい闘いがますますエスカレートしていた。1万5,000人の3万個の目玉がとび出し、鬼ガワラのような形相の大男と、大きな日の丸旗を振りかざしてお祭りのハッピ姿の出立に、日の丸入りの特攻隊用バンダナをした男に、目が吸いこまれていた。
 日本人マネージャー“タイガー・ハットリ”は、コーナー・ポストへ登り、観客へ向かって旗を振る。相手レスラーが必死で、旗をもぎ取ろうとして近づくと、旗棒で一つき、喉元へ刺す。マット中央へ倒れた相手を日本人レスラーが、何十回と足で踏み潰す。館内では一斉にあらゆる限りの罵倒語が発せられた。まるで、一冊のスラング・ディクショナリーができるような騒然さであった。それに加えて、リング下の記者席まで、オレンジ、生タマゴ、水入り紙コップ、1セントコインが投げすてられ、足の踏み場もないほどリング上は修羅場化した。ゴングが強要され、試合が強制的に終わる。リングを照らしていたスポットライトが消え出口のドアが開かれる。“視覚のカタストロフィ”を満喫したオーディアンスは“スペクタクルの風景(トポス)”へ余韻を残して、しぶしぶ帰宅の途につく。
 まるで今さっきの喧噪はウソみたいに会場は静まりかえった一方で、地下のドレッシングルームは活気を呈し、TV録画撮りのインタビューが、えんえんと続けられる。
 プロレスの本場、アメリカでは強いだけではトップになれない。現在では強さよりもむしろTVインタビューでの“おしゃべり上手”が要求されるのだ。プロレスが催される地区へ、実際の試合前にTVビデオが続々と流されて、茶の間にいる人々を試合場へ誘いだすカンフル剤の役目をしているのである。スリー、ツー、ワン、スタートで、アナウンサーがマイクロホンを服部氏の前へつき出すと、流暢な英語が、機関銃のように次から次へポンポンと飛びだす。「ミスター・サイトウ イズ ザ タフエスト レスラー イン ザ ワールド。 ヒー イズ ライク ニッサン トヨタ トラックス。ヒズ バディー イズ タファー ザン フォード トラック。 ヒービーッ アップ エブリバディ! ワッハハハ!」

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元横綱の羽黒山こと北尾光司(25才)のアメリカ・プロレス武者修行の旅!

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横綱羽黒山こと北尾光司(25才)のアメリカ・プロレス武者修行の旅!

先日、2月10日に55歳の若さで亡くなった北尾のニュースが一斉に流れた。業界では何度もトラブルを起こしてヒール(悪人)のイメージであったが、妻のコメントは“主人は曲がったことが大嫌いなピュアな人”でそれが唯一の救いであり、実にドラマチックな人生であった。1987年、大相撲をトラブって廃業。その後、角界を離れて約1年半、“TVレポーター”や“スポーツ冒険家”の肩書で活動していた。89年6月2日に、ついに1メートル99センチ、体重143キロをさげてプロ・レスラー転向を発表。そして、アメリカへ武者修行にやって来た。私は「週刊プロレス」の通信員として密着取材して、その時の感慨が湧き、追悼記としたい。

1989年5月10日、寝袋や衣類を詰めたリュック姿でトレーニング・パートナーのアポロ菅原を伴って第一次キャンプの為に渡米。同時にTV局や多数の雑誌社も同行した。
1989年5月13日、新日本プロレスの北米ブッカーのカナダ・カルガリー在住の大剛さんの紹介で東部へ武者修行に来て、ニューヨークへ到着。JFK空港で大剛さんとともに合流。70年代にWWWFで活躍し、猪木とも戦ったことがあり、日本へ5回来日した“プリティー・ボーイ”ことラリー・シャープが83年にニュージャージー州ポールスボロにプロレス・スクール「モンスター・ファクトリー」を設立し、バンバン・ビガロなどが輩出した学校に1日入門した。早速、スクール特製のTシャツに着替えてリングへ上がり股割などの柔軟をしながら「運動不足だから、、」と不安を口にする。シャープから“脇固め、ラリーアートキーロック、フロントヘッドロック”等の技を1時間習う。汗を拭きながらリングを降りた北尾は「初めて土俵に上がった時の様な新鮮な気持ちですね。プロレスは相撲と異なり、マットへ手足や体がついても負けないから気が楽です。本気になって鍛えれば、十分にやって行ける」と自信をのぞかせた。シャープから“将来の大器”の烙印を押された。
14日、車でペンシルベニア州フィラデルフィアへ移動し有名な美術館前のロッキー像を見学した(写真)。その後、アトランタオクラホマ、フェニックスと回り、プロレス、アメフト入門、サバイバル訓練などに挑戦。
27日、最終地のロスに到着。スタントマン・スクールで10メートルから飛び降りたり、火ダルマの訓練に参加。
30日、約3週間の旅を終えて、ロスから帰国。
6月7日、バージニア州ノーフォーク到着。第1次キャンプの為、プロレスの“鉄人”、「ルー・テーズ」スクールへ入門した。テーズからマン・ツー・マンの練習を授けられ、そしてテーズの天下の宝刀“バッグ・ドロップ”をマスターし約2ケ月間に渡りトレーニングを積んだ。
10月14日、ミネソタ州ミネアポリスが本拠地のマサ斎藤の紹介で、8週間滞在予定の第2次キャンプの為、アトランタよりアメリカ中部のミネアポリス到着。空港にはブレッド・レイガンズが出迎えに来てくれて初対面した。ミネアポリス郊外のアップトン出身のレイガンズは76年、モントリオール・オリンピックに米国レスリング代表で出場して4位となり、80年に地元のAWAでプロレビューして、大活躍した。83年に全日本プロレスに初来日を果たし、その後、新日本プロレスの常連外人レスラーとなる。91年に引退して、レスリング・スクール「レイガンズ道場」を主宰し、ベイダー、ブラッドショー、レズナーなどが輩出した。
北尾はレイガンズ・レスリング道場近くの高級ホテル「レジデンス・イン・ホテル」に投宿し、菅原と共に生活を始めた。
10月15日、早速、道場近くで、倉庫の様に広く、各種類のウェート・トレーニング器械が設置されているロード・ウォーリアス経営の“ザ・ジム”でトレーニングを始めた。生憎、ロード・ウォーリアスはNWAのサーキットに出ており不在であったが、2時間たっぷりとベンチ・プレス、カール、鉄棒、腹筋、バイクサイクルに汗を流した。
10月16日、午後2時より最初のリングでの練習をレイガンズ道場で行った。プロ・フットボール・チーム「サンフラン・シスコ49」出身の生徒ら5人とキャンプ入りした。近所に住んでいるWWFタッグ・チーム“デモリッション”のスマッシュ(クラッシャー・クルショフ)も休暇の帰宅中で、元横綱が来ているとの噂を聞き及び、息子を連れて見学しに来た。

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米国での「ザ・デストロイヤーさん」の思い出!

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デストロイヤーとレジェンド達
日本で力道山と名勝負した覆面の魔王「デストロイヤー」さんの死去のニュースを3日前に日本のインターネットで知った。
私は米国に約30年間滞在して、主に、プロレスの写真撮影に従事していた。デストロイヤーさんとは5〜6回会ったことがある。レジェンドのサイン会や、殿堂入の際やブラッシーの葬儀などである。素顔のデストロイヤーは僭越ながら、男前とは少し程遠く、丸い赤鼻にブルドックのような顔付きで、声はガラガラのダミ声であったが、精悍な雰囲気を持ち、いつも、誠実に接してくれた。
2003年5月に「プロフェショナル・レスリング・ホール・オブ・フェイム&ミュージアム」(1999年創立、主宰トニー・ヴェラノ)の「2003年度の殿堂入り式典」がニューヨーク州アムステルダムの高校講堂で盛大に催され、デストロイヤーさんと共に伝説の有名なレスラーが一堂に殿堂入りを果たした。写真は、まだ、若若しかった頃のレジェンド達である。残念ながらもう、彼らは皆、この世にはいなく、天国でもプロレス談義に花を咲かせているのだろう。左から、AWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクル(2015年、80才没)、「殺人鬼」キラー・コワルスキー(2008年、81才没)、デストロイヤー(2019年3月7日、88才没)、AWA創立者バン・ガニア(2015年、89才没)。
最後に会ったのは2003年6月6日に、「銀髪魔」フレッド・ブラッシー(85歳)が死去して、住んでいたニューヨーク州スカスーデールの町のヒチコック・プレステビリアン教会で葬式が催され、WWE会長のマクマホン夫妻と交じって、憔悴した姿のデストロイヤー夫妻も参列していた。私を見るなり、どこの報道関係かと聞かれ、「ベースボール社のウィークリー・プロレス・マガジン」と答えた。すると、雑誌に掲載されたら、送ってくれと言われて、名刺をもらい、そこには日本語で「デストロイヤー・カンパニー」と記されていたが、「子供達にレスリングを教えていて、夏にはサマー・レスリング・キャンプもしているので、取材に来て」と要請された。後日に貴重な一冊の週プロを送ったのは言うまでない。
ご冥福を祈ります。