What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

馬場の全日本プロレスから「週刊プロレス」取材拒否の時代、米国セントルイスで修行中の輪島さんへ偽って取材したのは私です。

先日、横綱でプロレスラーでもあった輪島さんの死亡記事がインターネットへ駆け回った。「週刊プロレス」の海外通員員の身を隠して、セントルイス滞在の輪島さんへ取材に行っ時の事を思いだした。

1983年に「週刊プロレス」が発行されてから3周年目の86年は山本編集長であったが、あまりにも UWF へ肩入れしたために馬場さんの全日本とジャパンプロレスから取材拒否を食らっていた。当時、横綱の輪島が花籠部屋の株を担保に入れて借金を返済しようとして相撲協会に発覚してスキャンダルとなる。

86年4月13日、借金返済の為と噂されながら、38歳で全日本プロレスへ入団発表する。

同年、5月に修行の為に米国へ渡り、7月よりミズリー州セントルイスで元 NWA 世界ヘビー級王者パット・オコーナーにコーチを受ける。そこで、同業者から輪島さんの連絡先を教えてもらい、日本の雑誌の依頼を受けて取材したいがと電話したらOKの返事をもらい、飛んでいった。ホテルへ着き輪島さんの部屋へ電話すると、すぐに部屋へ来てくれと言う。部屋に入るなり「東京のオフィスへ連絡はしたのか?」と聞かれたので、ウソついて「しました」と返答したらニコニコ顔になってくれた。ベット横に炊飯器と備え付けの冷蔵庫があり自炊している様子であった。あくる日、1日かけて朝から取材した。以下、週プロの記事より、、。

1986年7月の「週刊プロレス」より

「輪島セントルイスで発見!」 読者が望むならたとえ火の中、水の中、週プロは突撃します。創刊3周年、我々は取材拒否に負けません。最近、読者から「週プロは全日本プロレスから取材拒否されているが、輪島を載せて欲しい」という電話があった。読者から頭を下げられては黙っておれない。週プロも3周年を迎えたことだし、ここらで一つ根性を見せようというわけで、輪島をウォンテッドすることにした。いました。輪島はセントルイスパット・オコーナーのコーチにより毎日、汗を流していたのです。輪島は非常に元気だった。えっ、どんな風に取材したかって?それは内緒です。(86年7月17日、自由の国、アメリカのセントルイスにて)

見せるぞ 「相撲ラリアット」の威力!「大阪城ホール、満員にする」(輪島)

輪島はセントルイスのシュラトン・ホテルに住んでいて、午前9時30分をまわっるとパット・オコーナージープで迎えにくる。ホテルから15分の場所にあるエグゼクティブ・フィットネス・センターでトレーニングするためである。およそ2時間、ここで毎日、練習している。主に上半身の筋肉トレーニングが主体。「相撲ラリアット」 に磨きかけるため黄金の左腕を鍛えていた。プロレスの基本的な技はすべて飲み込んだようで「大阪ホールを満員にして見せるから楽しみしてくれ」と自信たっぷりだった。確かに体に張りがあるしやる気も充満している。オコーナも「輪島は素質があるし、ものわかりがいい。10月の日本でのデビューまでここにいて俺がコーチすればいいレスラーになるだろう」と語っていた。「最近のレスラーは基本ができていない。みっちりそれを教えるよ」とも言った。輪島がベールを脱ぐ日まであと2ケ月ちょっとだ!
d.hatena.ne.jp