What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

ケンドー・ナガサキ(桜田一男、享年71才)追悼記

1月12日、夜中の2時頃に、インターネットで、ケンドー・ナガサキさんの死亡記事が流れて驚いた。数年前に心臓の手術をしていて、心臓のペースメーカーの取り扱いが原因だったらしい。謹んでご冥福をお祈り致します。
小生が80年代始めにアメリカのプロレス取材を開始して、最も多く撮影し、最も気が合い、最も公私共に懇意にしてもらったレスラーが桜田さんだった。

小生は、昨年の4月に帰国して、即座に桜田さんへ電話を入れた。何でも、昔、居住したノースキャロライナ州シャーロットで開催される、往年のレスラーのサイン会に招待されたそうで大変喜んでいた。夏に電話すると、自伝(辰巳出版)を出版した、という。最近は韓国へ友達と遊びに行き、今は千葉に住んでいるから遊びにこいと誘われた。東京へ行く際はお世話になりますと述べ、電話番号をもらったのが最後の会話であった。

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ケンドー長崎
桜田一男は1948年9月26日、北海道、網走市の網走刑務所内の刑務官寮で生まれた。父親が刑務官勤務していたからだ。
 63年に中学校卒業と同時に大相撲の立浪部屋へ入門。
 71年にプロレス界に入り日本プロレスへ入門。
 73年にジャイアント馬場全日本プロレスに移籍。 
 76年、新人の天龍と共に渡米してテキサス州アマリロのテリトリーに入る。
 77年、ルイジアナ州へ転戦して「ミスター・サクラダ」をリングネームとする。
 78年、カナダのカルガリーに転戦してブレッド・ハートを指導する。
 80年、全日本プロレスへ凱旋帰国。同年、テキサス州ダラスに転戦して中国系チャン・チュンというマスクマンになる。
 82年、フロリダ州タンパへ転戦して「ケンドー・ナガサキ」に改名。同年、全日本プロレスに参戦して「ドリーム・マシン」と名乗る。
 83年、鶴見五郎と共にプエルトリコに初参戦。
 84年、ミネソタ州ミネアポリスAWAに参戦し、当時、WWF が全米進出をスタートさせ、各テリトリーが対抗策を講じて、ガニアがニューヨークで興業を打ち、ナガサキAWA世界ヘビー王者のリック・マテールに連日挑戦して初のナガサキ取材する。日本のマット界では、新日本プロレスから旧UWFジャパンプロレスが生まれて選手不足となり、副社長兼ブッカーの坂口が渡米して日本人のフリーと接触を試みていた。そこで小生が坂口と桜田との会談をニューヨークでセッテイングした。桜田は3年契約をして85年に「ランボー・サクラダ」名で新日に参戦し、その後「ケンドー・ナガサキ」のアメリカ・リング名を名乗る。
 84年頃、NWA 総本山のサウスキャロラウナ州シャーロットのクロケット団体に参戦して、J・J・デュランがマネジャーにつき、テキサス出身の女性と結婚して一男をもうける。
自伝の中でこんな海外生活法を述べている。「アメリカ、カナダ、ドイツ、プエルトリコ、メキシコ、韓国と、俺の場合、遠征に行く先々で必ず彼女を作った。人数は憶えてないが、行った土地の女とは一通りやっている。海外に長くいるから、何年も外国人専門だった。」とある。それを証明するような逸話を3つ紹介してみる。

1.アメリカで「 親子丼ぶり」を体験した日本人レスラー!
 「たしか、1984年頃、アメリカで新日本の後藤達俊と「ライジング・サン」を組む前だった。ノース・キャロライナ州シャーロットNWAジム・クロケット・プロモーションに所属し、日本人レスラーはオレ一人であった。顔に黒ペインして地下足袋をはき竹刀をもって暴れまくっていた。
 毎週、仲のいいマニー・フェルナンデスやサルバトーレ・ベロモと行動をともに、アパラチアン山脈の町々を廻っていた。現在のような TV 放送中心の興行と異なり、当時はハウス・ショーの観客人員の売り上げ金が団体とレスラーの大収入源であった。
 ある晩、山奥の小さな町で試合があった。2千人も入れば満員になるシビック・センターでメインイベントだった。相手は地元英雄ワーフ・マクダニエル。リングへ登るなり、オレの名前を書いた大きなプラカードをかかげてる親子を見つけた。控え室でシャワーを浴びていたら会いたいという人が来ているという。裏門へ行ったら、さきほどの親子であった。よく見ると母親は30代で、娘は10代のようだった。娘がオレの大ファンなので、これから家へこいという。美味しいステーキでも食べさせてくれると思った。後をついてドライブしやがて森のなかの一軒家に到着した。
 どうやら母親一人、娘一人の母子家庭のようだった。ビールとスパゲッティーをご馳走になり、だいぶ、夜はふけ、泊っていけという。親切なサウザーンホスピタリティーを受けた。もう疲れていたので「Yes!」と答え、自然と母親のベットに寝る事になった。娘はしぶしぶ自分の部屋へ引き下がった。
 オレは体が大きいのでベットの真ん中に寝かされた。やがて後片付けが終った母親が入ってきたが、次ぎに、娘が母親に「アイ・アム・ロンリー!」とか言って、静かにオレの横へ入ってきた。母親もとがめる様子がなかった。なんだかキツネに憑かれたようだ。もう、両サイドに親子で三人は川の字になって寝ることになった。やがて、シーツのガサガサする音が聞こえた。母親の方から、ゆっくりと手が伸びてオレの右太股を触ってきた。もう、寝るどころではない。すると左の方からも、子供のような手が伸びて、オレの左太股をさわってきた。それまで、路傍の石のごとく可憐に萎縮していたオレの一物、手荷物は、にわかに硬くなり、天高く馬肥ゆる秋の夜空へむかっていきり立った。
親子同士はオレに悟とられないように無言でオレの一物の所有権をめぐってケンカしている気配である。「ピーシャン!」とう音で娘の手が一旦引っこんだ。すると、母親は大胆に手を内股へ伸ばし、ついにオレの一物を軽く握った。今度は負じと強引に娘の手が割り込んできたので、母親が手を引っこめた。もう、数分おきに、交互に両サイドから手がのびてきた。そのつど、オレの一物は強制的に右を向かされたり、左を向かされたり、まるで柱時計の振り子のように揺り動かされ、ますます太く大きく勃起した。この親子のなりふりかまわぬ一物独占バトルに嬉しい悲鳴をあげながら途方にくれた。もうガソリンスタンドの「Self Service」という心境で勝手にしてちょうだいという気分となった。きっと、こんなアメリカの田舎なので、やっと60年代のフリー・セックスの波が来て、そして、まだ、文明に汚されず自然に生き、親子関係も天心爛漫でおおらかなのだ。ともかく純粋に母親と娘はたがいにオレを求めあい、懸命に「愛情の表現」を競いあっている。オレはそれに感銘し胸を打たれた。今夜は二人を平等に扱かってあげようと強く決意した!
まったく長いアメリカ・プロレス生活でもこんな体験ははじめてだった。
 え~~、何々、この話しの続きをもっと聞きたい?それなら小田原のオレのスナックまできてくれ。ところで LA のヨシノ屋で「牛丼」はビーフ・ボールである。じゃ~あ「親子丼」はマザー&ドォーター・ボールだ。(笑)オッサン、ほんまかいなでしょうかネ?」

2.彼女たちは玉付き
 86年、新日の新春シリーズ後、再び、フロリダ地区へ向かい、若手のホープ武藤敬司を同体して武者修行の面倒を頼まれたからだ。二人はタンパのアパートで一緒に住み、こんなエピーソードもある。
1986年のことである。今でこそ、二人は立派なスキンヘッドであるが、当時、長い髪を肩まで垂らしていた。一人の若手日本人プロレスラーが初海外武者修行のため、アメリカのNWA系フロリダ・オフィスCWF(プロモーター=デューク・ケオムカ)へきた。すでに一匹狼で活躍している先輩と合流した。渡米前にアメリカのチック(米俗=娘)は積極的で気軽に声をかけてくるとか、ピルを飲んでいるから妊娠の心配はないとか聞かさて来た。フロリダの語源はフラワー(花咲き匂う)という土地だけあり解放的で街行く女性の姿はすべからく 「金星」(業界用語=キンボシ/美人のこと)に見えた。二人とも身長1メートル80センチ級で、どこから見ても生っ粋のオリエンタル・マッチョマン・タイプでアメリカの男性が見ても惚れ惚れするほどカッチョよかった。二人は共同生活しリングではタッグ・チームを組んだが 「ヒール」(業界用語=悪役)であり、ファンからは毎回嵐のようなブーイングを浴び、卑劣な言葉で罵倒され、優しい言葉をかけてくれるファンは一人もいなかった。
 練習で軽くプッシュアップは千回もこなせたが、プッシーアップ(業界用語=エッチ)は一回もしてなかった。試合はいつも二、三分でかたがつき、たっぷりと若さとエネルギーを持て余し、悶々とした生活を送っていた。背に腹、チンボにコンマはかえられない。
ある日、ある町の試合が終わると、不思議なことにアリーナの出口で二人の可愛いチックより花束をもらった。 「出待ち」(業界用語=文字通り出口で待っていること)である。後輩は「うわぁ~先輩、彼女たちはオレたちに気がありますよ~。それにすごい ”金星”ですよ~!」と絶句した。先輩も「お前、 ”ツバ”(業界用語=ナンパすること)をつけてこい!」と指令した。片言の英語で誘ったら、試合が休みの日、アパートへ遊びにくるという。日本人男性なら誰でも一度は夢見る本物のアメリカのブロンドとデートである。その日がきた。二人ともアメリカ人にしてはケバケバしいほどの化粧をして、多少、声もしわがれていた。だけど初めて接するアメリカン・チックなので日本人レスラーたちはちっとも気にとめていなかった。ビールと日本料理で歓迎し彼女たちも、十分に、エンジョイしている様子であった。夜はより深くなり自然に2カップルとなり、お互いのベッドルームへ消えるのは時間の問題であった。
 後輩レスラーはその彼女の唇へ 「お刺身」(業界用語=キスのこと)した。はやくもレスラーの一物はステロイドをうったごとくパンパンと腫れあがり、爆発寸前であった。何といっても半年ぶりですからネー。やっとブラジャーをはずそうとしたが「No!」と拒否された。強引に指を入れると男のような扁平な胸に小さな乳首がついている程度であった。も~う、一刻も早く彼女を裸にさせたかったが一向にスカートを脱ぐ素振りは見せなかった。もう、破れかぶれで力まかせに彼女の股間の奥深くまで手をグリグリと突き進めた。 「首投げ」(業界用語=エッチ)目前である。その瞬間、何か変なナマコのようなグニャグニャした物体にぶつかった。しっかり触ると自分の一物と同類モノであった。「ウワ~ア、先輩、こいつ男ですヨー!キンタマがありますヨー!」とアパート中に聞こえるような大声で叫んだ。それまで大和魂の気迫と力強さにみなぎっていたのに、イチモツは無惨にも完全に萎縮してしまった。「No,No!」といって彼女、いや、彼氏を急いでベットルームから追い出した。
 一方、隣部屋の先輩のベッドルームでもエッチな行為の最中であった。彼女はまさに全裸の先輩の下半身へ顔を埋める寸前であった。「何だ、何だ、そいつは男だって、、、ちょっと待て、オレのも調べるから!」と大きな声の日本語で返事した。嫌がる彼女の手をはねのけ有無をいわさずの剛力でGパンのジッパーを強引に下げ、パンティー上から股座の奥深くを強く探ってみた。すると、やはり「オ~イ、こいつもキンタマがあるぞ!こいつも男だ!」と後輩へ向かって叫んだ。だが、も~う、モノはNASA宇宙ロケットのごとく天高く空へむかってそびえ立ってしまっているから、ひっこみがつかなくなった。それに背に腹はというよりチンボに何物も変えられない。エーイ!、こうなったら最後までやってしまえとばかり、 Chicks with dicks(娘さんたちは金玉付き)の彼女に、いや、彼氏にペロペロしてもらったのでありました。さすが先輩です。後輩は偉く感心しました。

3.ナガサキポーゴカリブ海決闘!
 88年、約5年ぶりでプエルトリコへ転戦して、ブロディに竹刀を取られてケンカ・マッチとなり、ポーゴと組んでWWC世界タッグ王座を獲得して、武藤が合流して二人で共同生活を始めるが、プライベートでは桜田ポーゴが現地の姉妹と付き合っていて、こんな事件もあった。
 80年代のアメリカの裏プロレス界で、最も恐れられたレスラーが二人いた。バックステージで、控え室で、また、レスラーの集まるバーで、レスラーのいる所ではどこでもその名は広く知れ渡っていた。数々のリング内外のケンカ武勇伝は伝説とさえなっていた。本人いわく「ま、こんなもんでしょう」とポーカフェースでつぶやきながら、「300回ぐらいケンカした事があるけど、一度もやられた事がない」という。ケンドー•ナガサキこと「ケンカ屋」桜田一男である。桜田が東の横綱であれば、もう一人の西の横綱はハクことトンガさんであった。この世界で、普段はもの静かな二人であるが怒らせたら誰も手がつけられなかった。
 2009年3月29日、「極悪大王」ミスターポーゴこと関川哲夫著「ある悪役レスラーの懺悔」が上梓された。その中で「俺様とケンドー•ナガサキがタッグを結成してまもなく、日本から武藤敬司選手がプエルトリコ入りしてきた。そこで俺様たち3人は合体して、「忍者エクスプレス」と称してリングに上がっていた。武藤は桜田ナガサキ)さんのアパートで共同生活することになる。「忍者エクスプレス」の私生活については、書けない話しが多すぎる。武藤が俺様のジョージナと手をつないで歩いているのを見てしまったし、桜田さんにいたっては、ジョージナのお姉さんと、、、。本書では、すべての真相を洗いざらしにぶちまけているが、俺様をいじめた桜田さんの話しだけはタブーだ」とある。桜田さんへの書けない話しとは何なのか?
1987年6月、ミスターポーゴは、ホームリングのNWAカンザスシティと新日本のリングへ相互に上がっていたが、プエルトリコのボス、コロンよりブッキングされて、6年ぶり、2回目の南海プエルトリコへ足を踏み入れた。若手で売り出し中のTNTのパートナーの要請であった。1987年7月11日、カグアスでミスター•ポーゴTNT組がマーク&クリス•ヤングブラッド兄弟を破りWWCタッグ王座奪取。10月にダラス在住の桜田ポーゴのニューパートナーとして、再び、遠征してきた。二人は85年に新日本プロレス「第一回IWGPタッグリーグ戦」でタッグチームを組んだ仲である。桜田もそれまでプエルトリコへ何回も来ていた。10月17日、二人はカグアスでミスター•ポーゴ&ケンドー•ナガサキがヤングブラッド兄弟を下しWWCタッグ新王者となった。
 ボスのコロンはナガサキとミスター•ポーゴ組を高く評価していた。二人は悪の限りをつくし竹刀を使い破竹の勢いで防衛戦を連日こなしていた。ベビーフェースのブロディ&ロッキー•ジョンソン組とも壮絶な試合をした。また、地元の若手で美男子ミゲリート•ペレスを竹刀でめった打ちして顔面から大出血させると、ドクターが手術箱をもって駆けつけ、リングサイドで傷口を縫い始めた。その場面がお茶の間のテレビへ流れ島中で極悪ジャパニーズとして有名になった。この日本人レスラー達は有名人となったものの、世界の美女の産出地プエルトリコにいながらヒールであるがためまったくモテなかった。独身の3人は悶々とした生活を送っていた。優しいポーゴさんがやっと若くて小柄でチャーミングな美人をみつけてきた。肌が白くてハイスクールに通う16才のハイティーンであった(のちにポーゴさんはこのギャルと結婚して子供をもうけたが離婚)。桜田は頭をさげてその姉を紹介してもらった。姉妹であるのに21才の姉は輝くような褐色の肌で背がたかく気品があった。毎晩、桜田は日本男児大和魂をベットで発揮した。ある日、郊外よりバスを乗り継いで桜田のアパートに母親が押し掛けてきた。「うちの娘が家に帰ってこない。悪いハポネに誘惑された」と玄関前で大声をだし大騒ぎした。近所の人が心配そうに集まってきた。桜田と武藤はアパートから外へ出られなくなり桜田は頭をかかえた。次の日、サンファン郊外のハウスショーが終わり、ポーゴさんはいつものようにランニングシャツとパンツを着たままシャワー室に入り鼻歌まじりに桜田淳子の歌謡曲を口ずさみながら、のんびりと体を洗って出て来た。さっと壁の方へ顔を向けて帰り支度を始めた。ドレッシングルームにはまだ多くのレスラーがいた。気性の激しい桜田ポーゴに近づくと日本語で「お~い~、コラー、この、バカヤロー、母親にくだらんことをしゃべりやがって!」と大声で問責した。突然、殴り合いとなった。カラダの大きい桜田は容赦なく怒り狂って鉄拳をポーゴの顔面に浴びせ、赤タン、青タンとした。まわりにいたレスラーたちもあっけにとられた。もう、手がつけられなかった。誰かがボスのコロンを呼びにいった。親分も、手のほどこしようがなく、制止をあきらめて、そのままやらせる以外に手はなかった。邦人同士によるカリブ海の決闘である。それ以来、アメリカ人レスラーやプエルトリカン•レスラーたちはジャップを怒らせたら怖いという伝説になり、日本人レスラーに対して一目も二目も置くようになった。

 90年代後半にはSWS、NOWを経て94年に小鹿の大日本プロレスの設立に合流してエースとして活躍し、バリー・トゥードに挑戦して「桜田ケンカ最強説」の武勇伝を残す。

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桜田夫婦

 2000年頃、東京の下町出身でスナック経営者の娘さんと再婚して、タニマチのいる小田原の最高層のマンションに入居して、飲食店を経営した。
2002年1月22日発刊「週刊プロレス」に「プロレス界の料理の鉄人ケンドー・ナガサキがチャンコ鍋店をオープン!」を掲載された。
「プロレス界からケンドー・ナガサキの名前が聞かれなくなって久しかったが、神奈川県、小田原にチャンコ鍋店をオープンして驚いた。本人いわく、蔵前相撲大学チャンコ鍋科を卒業したのだという。大相撲の新弟子時代、いやというほどチャンコ番をやらされ、チャンコの作り方は骨の髄まで覚えてしまった。その昔、プエルトリコナガサキと一緒に暮らした武藤選手や、ノースキャロライナ州シャーロットでタッグを組んだ後藤達彦選手も、ナガサキの料理が天下一品の腕前だったことを認めている。そんなナガサキ小田原駅前のメインストリートに「チャンコケンドー」「スナックケンドー」を開いて2年になる。こだわり人、ナガサキは毎朝、新鮮な食材を求めて小田原漁港に買い出しに行き、自らシェフとしてエプロン姿で厨房「キッチンアリーナ」の中を忙しく動き回っていた。ナガサキによると料理もプロレスも、どちらも「闘い」だという。」
 以後、プロレス界から徐々に去ったが、引退を宣言したことはなく「生涯レスラー」を貫き通して幕を閉じた。桜田さんは誠におおらかで、ヒューマニスティックな大兄であった。