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元横綱の羽黒山こと北尾光司(25才)のアメリカ・プロレス武者修行の旅!

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横綱羽黒山こと北尾光司(25才)のアメリカ・プロレス武者修行の旅!

先日、2月10日に55歳の若さで亡くなった北尾のニュースが一斉に流れた。業界では何度もトラブルを起こしてヒール(悪人)のイメージであったが、妻のコメントは“主人は曲がったことが大嫌いなピュアな人”でそれが唯一の救いであり、実にドラマチックな人生であった。1987年、大相撲をトラブって廃業。その後、角界を離れて約1年半、“TVレポーター”や“スポーツ冒険家”の肩書で活動していた。89年6月2日に、ついに1メートル99センチ、体重143キロをさげてプロ・レスラー転向を発表。そして、アメリカへ武者修行にやって来た。私は「週刊プロレス」の通信員として密着取材して、その時の感慨が湧き、追悼記としたい。

1989年5月10日、寝袋や衣類を詰めたリュック姿でトレーニング・パートナーのアポロ菅原を伴って第一次キャンプの為に渡米。同時にTV局や多数の雑誌社も同行した。
1989年5月13日、新日本プロレスの北米ブッカーのカナダ・カルガリー在住の大剛さんの紹介で東部へ武者修行に来て、ニューヨークへ到着。JFK空港で大剛さんとともに合流。70年代にWWWFで活躍し、猪木とも戦ったことがあり、日本へ5回来日した“プリティー・ボーイ”ことラリー・シャープが83年にニュージャージー州ポールスボロにプロレス・スクール「モンスター・ファクトリー」を設立し、バンバン・ビガロなどが輩出した学校に1日入門した。早速、スクール特製のTシャツに着替えてリングへ上がり股割などの柔軟をしながら「運動不足だから、、」と不安を口にする。シャープから“脇固め、ラリーアートキーロック、フロントヘッドロック”等の技を1時間習う。汗を拭きながらリングを降りた北尾は「初めて土俵に上がった時の様な新鮮な気持ちですね。プロレスは相撲と異なり、マットへ手足や体がついても負けないから気が楽です。本気になって鍛えれば、十分にやって行ける」と自信をのぞかせた。シャープから“将来の大器”の烙印を押された。
14日、車でペンシルベニア州フィラデルフィアへ移動し有名な美術館前のロッキー像を見学した(写真)。その後、アトランタオクラホマ、フェニックスと回り、プロレス、アメフト入門、サバイバル訓練などに挑戦。
27日、最終地のロスに到着。スタントマン・スクールで10メートルから飛び降りたり、火ダルマの訓練に参加。
30日、約3週間の旅を終えて、ロスから帰国。
6月7日、バージニア州ノーフォーク到着。第1次キャンプの為、プロレスの“鉄人”、「ルー・テーズ」スクールへ入門した。テーズからマン・ツー・マンの練習を授けられ、そしてテーズの天下の宝刀“バッグ・ドロップ”をマスターし約2ケ月間に渡りトレーニングを積んだ。
10月14日、ミネソタ州ミネアポリスが本拠地のマサ斎藤の紹介で、8週間滞在予定の第2次キャンプの為、アトランタよりアメリカ中部のミネアポリス到着。空港にはブレッド・レイガンズが出迎えに来てくれて初対面した。ミネアポリス郊外のアップトン出身のレイガンズは76年、モントリオール・オリンピックに米国レスリング代表で出場して4位となり、80年に地元のAWAでプロレビューして、大活躍した。83年に全日本プロレスに初来日を果たし、その後、新日本プロレスの常連外人レスラーとなる。91年に引退して、レスリング・スクール「レイガンズ道場」を主宰し、ベイダー、ブラッドショー、レズナーなどが輩出した。
北尾はレイガンズ・レスリング道場近くの高級ホテル「レジデンス・イン・ホテル」に投宿し、菅原と共に生活を始めた。
10月15日、早速、道場近くで、倉庫の様に広く、各種類のウェート・トレーニング器械が設置されているロード・ウォーリアス経営の“ザ・ジム”でトレーニングを始めた。生憎、ロード・ウォーリアスはNWAのサーキットに出ており不在であったが、2時間たっぷりとベンチ・プレス、カール、鉄棒、腹筋、バイクサイクルに汗を流した。
10月16日、午後2時より最初のリングでの練習をレイガンズ道場で行った。プロ・フットボール・チーム「サンフラン・シスコ49」出身の生徒ら5人とキャンプ入りした。近所に住んでいるWWFタッグ・チーム“デモリッション”のスマッシュ(クラッシャー・クルショフ)も休暇の帰宅中で、元横綱が来ているとの噂を聞き及び、息子を連れて見学しに来た。


8週間の綿密なレイガン・スクールのカリキュラムが発表された。
日課
1、 ベーシック・トレーニング(ウォーミング・アップを念頭に置き、柔軟体操、受け身の練習、ジムナステック練習をして、体を温めて、体を敏捷にする)。
2、 ベーシック・テクニック(技の習得を目的として、基本技をレイガンズが示し、同じ様に出来るまで何回も反復する)。
3、 コンディショニング(アマ・レスのマット・ポジションから上の攻撃の人をいかに押さえ込むか、そして、下の人はいかに素早く逃げるか交互に5分ずつする。レスリングの寝技の動きと耐久力を養う)。
4、 レインガズ道場の特別体力作り(高さ1メートル、重さ100パウンドの丸太を持ち上げたり、左右に移動させたりする。上半身と腕力の強化が目的)。

週スケジュール(技術編)
第1週間目
1、 アマ・レスとプロレスの上半身のテクニック(アーム・スピン、フェイス・ロッ ク、スープレックスの各種の投げ方)
2、 アマ・レスの下半身のテクニック(タックルのシングルとダブル・タックルの2種類、タックルから相手を持ち上げ、または、タックルの防禦)。
3、 アマとプロの異なる上半身のテクニックと、そのバリエーション(アマのファイヤーマン・キャリーで投げてからプロの腕の決め方、アマのドロップ・トーホルドのプロへの応用)。
4、 アマとプロの異なる下半身のテクニックとそのバリエーション(アマのタックルから倒してトー・ホールドに対してサブミッションのフィギュア・レッグ・フォー)
5、 プロにおけるロープ、リングの概念(ロープの色々な使い方、リングへのカンバックの仕方、ドロップ・キックからのフライング・ドロップとかヒップ・トースト)
6、 7、8、生徒とのスパーリング。
 
初日の技の分析
1、 タイ・アップ(アマ・レスで言う組手。両者が自然体で立ち、それから、呼吸を相手と合わせて、一気に組み、手首を相手の首後ろへ掛ける。相撲は猫背の姿勢ではなくて、胸を突き出すくらい大きく出し、手の振りを頭の真上からふりおとす)。この技一つで、レスラーを評価出来ると、レイガンズは言う。
2、 ロック・アップからヘッドロックの取り方。(相手の頭を自分の懐に引き寄せる)。北尾がテーズの所でマスターし、レイガンズはパーフェクトと言う。
3、 フェイス・ロック・アップからアーム・バーの取り合い。
4、 リバース・ハンマー・ロックの掛け方。
5、 スープレックス(フロント・スープレックに初めて人形を使って投げる練習。要点は力で投げるのではなく、相手の腹を自分の腹に乗せて、ポイント円を描く様にブリッジして投げる。次に、相手の両方の腕を決め手からひねりを加えてのフロント・スープレックスをレイガンズが披露)。北尾が熱心に質問した。
以上が1日目の技の講義内容であった。

レイガンズのコウジ(ここでは北尾が皆から名前で呼ばれている)に対する感想は“ビガロから聞いた話だが、コウジが新日本のプロレス会場へ見に来た時、椅子に座っていて大きいとは思わなかったが、近づいて挑発したら、立ち上がり、あまりにも大きいので、こんなビッグ・ジャパニーズがいるなんてびっくりした。流石にナショナル・スポーツのグランド・チャンピオンだけあって体力的にも、レスリングは、勿論、プロ・フットボールへも入れる。運動性は抜群で、特に足腰がすごく強い。木曜日の練習も一回でマスターしたのはコウジが初めてだ。滞在は2ケ月間の予定だが、本来なら3ケ月間滞在するのがベストだ。本人も非常に熱心なので教えがいがある”。

北尾の初日の練習の感想は“技術的に的確であるし、科学的な理論にもかなっていて、きちっと教えてくれるのがいい。テーズがオーソドックスで総合的なレスリングに対して、レイガンズはアマ・レス的でより分析的である。8週間でレイガンズからなんでも吸収したい。特に、グレコの技を基礎として、例え、ロシアとやってもひけをとらない様に。生徒の中にはすごい力のある奴がいるが、アメリカ人は下半身が弱い。スパーリングはテーズの時からずっとしてきているので不安はない。体を作り変えているため、オリンピックのウェート・トレーンイングで優勝した人のダイエットを実行している。今のままの体重を変えないで筋肉をつけるダイエットである。ロード・ウォーリアス・ジムで全身を鍛え、ダイエットのバランスの良い食事をしているので、全て、理想的に行っている。体重はテーズの時と同じ330パウンドぐらいだ”と述べて、プロ・レスラーへの道を力強く一直線に付き進んでいる。日本でのデビューが楽しみである。

日本での主なプロ・レスラー及び格闘家の経歴
1990年2月15日、北尾は“プロレスの師匠はルーお父さん(ルー・テーズ)”と語り、新日本プロレス(東京ドーム)で初リングを踏みプロレス・デビューしてビガロに勝つ。
7月、巡業中の青森八戸市ホテルで現場監督の長州力と口論となり「この朝鮮人野郎!」と発言して、その日に契約解除される。
11月にSWSの天龍を頼り入団。
1991年4月1日、SWS(神戸ワールド記念ホールジョン・テンタメと戦い、「この八百長野郎!」発言で、契約解除される。
      92年10月23日、UWF主催(日本武道館)“格闘技世界一決定戦で高田    に負ける。
94年に北尾道場を設立。
95年1月21日、後楽園ホールで旗揚げ戦。
95年に武輝道場と改名。
95年5月3日、新日本プロレス福岡ドーム大会)、5年ぶりに新日に参戦して猪木と組み天龍・長州力と対戦して勝つ。
      95年7月15日(後楽園ホール):格闘の祭典“のメインでクラッシャー・     クラウンと対戦して勝つ。
96年4月5日(駒沢オリンピック体育館)「第1回UVF」でバーリ・トゥード戦に出場して、ペドロ・オタービオにTKO負け。
      97年10月、総合格闘技戦「PRID 1」に参戦し、ネイサン・ジョンズに勝つ。
      98年7月1日、後楽園ホールで引退を表明。
      2003年、立浪部屋のアドバイサーとなる。