What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

ニューヨークの E.V.(イースト・ビレッジ)のセント・マークス通りで最初にジャパレスを作った男!

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口
「そのレストランが儲かっているか、否かは、その店のゴミの量を見なさい」ジャパレス・オーナーY氏の言葉
 今ではもうイースト・ビレッジ界隈をリトル・トーキョーかジャパニーズタウンと呼べる。
 ニューヨークの「ニューミレニアム」カウントダウンの余韻が醒めやらない2001年1月18日。市内の路上には大雪が残っていた。開店前の某ジャパレスのカウンターでブラック・コーヒーを飲みながら、「ほら、まだタコがあるよ!」とその人は大きな手を見せてくれた。右手の親指と人指し指の間の付け根には大きなタコがあった。もちろん、文筆家のようなペンダコではない。往年にアイスクリームのスクープ・スプーンの持ち過ぎで出来たものだ。今より29年前、つまり1973年にダウンタウンのE.V.のメインストリート「セント・マークス通り」に、最初のジャパレス店をオープンした。その日本人経営者Y氏より苦節のニューヨーク・イーストビレッジ物語を語ってもらった。
 横浜で生まれ育った。駐留アメリカ軍基地がそこら中にあり、いつかアメリカへ行ってビジネスをしたいと夢を抱いていた。基地のアメリカン・スクールの先生がアメリカでのスポンサーになってくれた。1969年、学校を卒業と同時に海外持ち出し最高額$500を両親から貰い、ニューヨークへ来た。将来はホテル業界に従事したかったのでアップステートのコーネル大学の観光学科へ行こうと思っていた。まず、語学を習うため、当時、タイムズ・スクエアにあったケンブリッジ語学学校へ通った。そこには、一人の日本人クラスメートがいた。今、日本で有名なプロレス・レフェリーのタイガー服部であった。「オレの住んでいる所はすごくいい所だよ。月レントがたった54ドル75セントで、チョー安いから、引っ越してこない?」と誘われた。6ストリートのアベニューAとBの間だった。恐ろしく荒廃している地域であった。アパートの裏窓から泥棒が毎日様子をうかがいにきた。強盗と麻薬は日常茶飯事。その上、アベニューC、Dでは夏になると必ず大暴動が起きた。今考えると、ここに住み始めたのが人生の分かれ道であった。 
 60年代後半当時、この国はベトナム戦争中であり、国内ではカウンター・カルチャーの全盛時代だった。ヒッピーと呼ばれた長髪の若者たちが “Make Love, Not War! ” をスローガンに大人社会に対して反逆した。その彼等ヒッピーの聖地の一つが E.V.であった。ここにはロックの殿堂「フィルモア・イースト」やニューヨーク最大のディスコ「エレクトリック・サーカス」などがあり、新宿のように24時間人出でにぎわっていた。それも大多数が女性だった。なぜなら、男は戦争へ狩り出されて極端に少なかったからだ。その頃、ニューヨークの人口比は女性9人対男1人といわれていた。なかでも、オリエンタルの男性はまだ極端に少なかったので目立ちに目立った。街を歩くだけで何度も女性からナンパされたり、ストーカーされてアパートまでつけて来られたり、レイプされそうになったりで、嬉しい悲鳴をあげざるを得なかった。(爆笑)
このセント・マークス通りにアカプルコ・ゴールドやパナマ・レッドなどのマリファナ・ブランド名をつけて32種類フレーバーのアイスクリーム店があった。そこでバイトで働き始めた。店は大繁盛で金、土、日は朝9時から夜中4時まで営業。ワン・スクープ$0.25、ミルク・シェーク$0.75。時給$1.25であった。週5日制のこの国で週7日、体力の続く限り毎週79時間も働いた。英語もロクに喋れないので、この国の人と対等か、あるいは、それ以上になるには、親から貰った丈夫な体を酷使する以外になかった。いつの間にか猛烈さを買われアイスクリームの製造までまかされた。73年、オイル・ショックでアメリカ経済が急激に悪化し、軒並みセント・マークス通りも「For Rent!」の張り紙が貼られた。ジューイッシュのオーナーからアイスクリーム店を買わないかと持ちかけられ、たったレント$450の居抜きであった。横6メートル、奥行き10メートルの狭い店であったが、宮本武蔵のごとく二刀流で、アイスクリーム・パーラー&ジャパニーズ・スタイル BBQチキン店をオープンした。25才のときである。この国へきて初めて一国一城のビジネスの主となったが経営は苦しく車を買う余裕などなかった。スーパー・マーケットから手押しのプッシュカートを拾ってきて、それを転がしながら14丁目のミート・マーケットまで行き、1箱50パウンドのチキンを買い出しに行っていった。いくら汗水垂らして頑張ってもアメリカ経済自体がどん底で経営は好転しなかった。
 昔から同じブロックにイタリア人経営のBBQチキン店があった。狡猾で悪評判なオーナーのベーニーは客を取られたとネタミ、ウラミ、ジェラシーを抱き、ある日、もっとも卑劣な行為に出てきた。ガンを持って脅迫しにきたのだ。ベースボール・バットをもった4、5人の人相の悪いマフィアをともない店の前にピケを張り、客が入ってこられないようにと営業妨害した。「オマエの命がほしければ、さっさと店をたたんで出ていけ!」というわけである。あの頃、レキシントンの50丁目代のアンティック・ショップでは第二次世界大戦で GIが持ち帰った日本刀が二束三文で売られており、幸い、それをアパートに飾っていた。まだ若さもみなぎり、無鉄砲なころであった。前後の事などまるで考えなかった。まるで特攻隊のように、その刀をもって立ち向かっていった。オレは商売の不正行為をしたわけでもなく、正々堂々と自分のビジネスを守る為の義務感にかられた。鬼のような形相で「ブッ殺すゾー!」と大声を張り上げながら、長い日本刀をメチャクチャに振り回した。ヤツらは異常に長いナイフでヤバイと思ったのか、それとも気迫で負けたと思ったのか、驚いて退却した。この噂はこの界隈の店主や住民の耳にもすぐ入った。それ以来、あそこのジャパニーズのオーナーはすごいガッツがあると尊敬され、また、日本人は怒らせたらマフィアより怖いと、誰でもが一目置くようになった。30才のときである。
 そんな事が起こり、ビジネスにも、ブルーが入ってきた。大学院で勉強しようと店を売る事にした。幸い、香港からきた金持ちのヤング・チャイニーズへ高い値段で転売することが出来た。なぜなら、アイクリーム卸屋に聞けば分かることなのだが、当店の秘法のアイスクリーム製造法を極秘伝授するとの名目で、頭金1/2を貰い、残りは3年以内に返済する、出来ない場合は、オレに無条件で店を返還するという契約書を交し、案の定、3年以内で倒産させてしまった。まるで濡れ手の粟で大金がそっくり入り、その上、店が戻ってきた。今度はそれを資金に、再度、レストランビジネスを開始した。
 このイースト・ビレッジはまだヒッピーの “Down to Earth!”(自然へ帰れ)のナチュラル志向のマインドが漂っていた。ジョン・レノンオノ・ヨーコなどが来るような自然食品店やマクロバイオッティク・レストランなど多くあった。75年にナチュラルフード「Dojo」レストランをオープンした。ただし、店構えはレストランだがファースト・フードの値段で、学生をターゲットにした。レシピーは世界に当店しかない独特メニューで大豆から作ったソーイビーンバーガーと玄米を目玉に、ヒジキ、ガンモドキアルファルファー・スプラウトを盛り合わせて世界一の健康食に仕立てあげた。それが成功して大繁盛した。
  店も次第に軌道にのり小型車を購入して、毎週、フルトン・マーケットへ魚の買いだしにいっていた。ある日、市場内は車の乗り入れ禁止なので遠くにパーキングして、買ったエビ$1000相当を車に積み、再度、買いだしに行っている間に車の窓を壊されエビが盗まれていた。それも検察官出身のジュリアーニが新市長になってから無くなった。
 この都市では「店から出るゴミはマフィアのもの。道から出るゴミはニューヨーク市のもの」といわれている。それでコマーシャル・ビジネスに対しては私営清掃会社と契約しなければならない。ある時、急にゴミ回収費をあげてきた。払わないとゴミを持っていかないというので、別の業者を捜したがそこも断わられ他の業者を紹介してくれた。ところが、それは前と同じ業者であった。何のことはない。たらい回しにされて元へ戻ってしまったのだ。ゴミの回収はマフィアで縄張りが決まっているのだ。それで、いやがらせで、前よりも一段と高い値段へ釣り上げられた。一時、毎月$4500も払っていたがこれもジュリアーニ市長になってから自由競争となり$1500〜$1600になった。
 ニューヨークでビジネスを始めて13年が経過し安定してきたので、85年に一気に勝負をかけた。丁度、9丁目の2アベニューと3アベニューの間にクーパー・ユニオン大学が学生寮を建設し、1階に本屋が入り、2階が空いていたので、日本のスーパー・マーケット店をオープンし、さらにその横にはスシ店、焼肉店、パン屋、バー、居酒屋、アメリカン・レストラン等、万が一、一店がコケてもいいように、多角経営戦略で一斉にオープンした。名づけて「東村(イースト・ビレッジ)横丁」とした。
 80年代、日本のバブル景気を反映して、この地区にも日本人によるジャパレスやヘアーサロンや、いろいろな店が雨後の竹の子のようにでき、日本人の住民も増加の一途をたどった。どこでオレの噂を聞いてきたのか?ある日、香港製の黒スーツ姿のチャイニーズ・マフィアが店に乗り込んで来た。店をプロテクションしてあげるから「金をよこせ!」とカツアゲにきた。月$1万を支払えと凄んだ。チャイナタウンのどんな店も、毎月ショバ代を強制的に搾り取られている。安心してビジネスが出来るようにとラッキーマネー(幸運なお金)と呼ばれている。もしアンラッキー(不幸)になりたくなければ金をよこせと因縁をつけてきたのだ。ギャングは資金拡大のためチャイナタウン以外の東洋系の店を狙いだしたのだ。きっちりした日本語を話すチャイニーズ・ギャング3人で、アメリカ中に組織を持つ、もっとも残忍狂暴な新興ベトナム系チャイニーズ・ギャング “Born to Kill(生まれながらの人殺し)” 団として恐れられ、そのメンバー達であった。一人は完全な日本人でミッドタウンのバーでバーテンダーをやっていた20代のガキで、他の二人は日本生まれのチャイニーズ2世であった。毎日、顔を出し、「ラスト・チャンス!」だと恐喝し、何十回も電話をかけてきて「ぶっ殺してやる!」、「店を夜中に放火してやる!」と脅迫してきた。次第に自分自身が不安となり地元 NYPD9分署へ何回も相談へいったが警察はアジア人ギャングの構成は曖昧で、その上、ランゲージ・バリアーに阻まれて監視するのが非常に難しいという。ともかく、この地区の日本食レストランのオーナーに集まってもらい、対策を協議し最大の警戒をするようにした。やがて2〜3年経って、ある日、日本の渋谷署から電話があり、こういう人が貴方の友達と名乗り出ているがどんな関係ですかと聞かれた。「バカヤロー!」。オレはそいつから脅かされて恐喝された被害者だと答えた。それは日本中を震憾させた凶悪事件で、慶応大学出身の若者が東京・六本木でナイトクラブを開いて大当りしたが、そのチャイニーズのヤツらが乗っ取りを計画し、そのオーナーを殺してセメント詰めにしてしまった殺人事件の犯人達であった。日本からも、わざわざ、朝日新聞の記者がオレの所へまで取材にきた。
 1992年3月31日付、日刊新聞「ニューヨーク・ニュース・デー」紙の報道によると、“アジア人のギャング7人に有罪!”
 「チャイナタウンの最もバイオレンスなストリート・ギャング “Born to Kill” 団のメンバー7人が、昨日、連邦裁判所にて、殺人罪、強盗罪、強要罪で有罪となった。ギャングの創立者デビット・タイ(36才)と6人のベトナム系チャイニーズ組員は東部海岸の都市全般に渡ってアジア人ビジネスマンへ自動小銃や爆発物を使用して恐怖に陥れた。US 検察官アンドリュー・マロニーは評決に対して「バイオレントなギャングによってアジア人コミュニティーの人々が犠牲となっているのを証明できた。彼等を罰しないでは許せない。我々は “Born to Kill” という、多分、ニューヨークで最も凶悪なギャング団の心臓を掴んだと信じる」とある。 
 オレは石の上にも3年ではないが、もう、かれこれ、この地でビジネスをして30年。現在、従業員約数百人で一企業へ発展した。これから、あと幾星霜かかるか知れないが何とかニューヨークで「黄金(くがね)の釘」一本でもさして、これからニューヨークへくる日本人の礎になればいいとおもう。
 何?オレのビジネス・モットーかい?この町の挨拶に “What’s new?” がある。その返事は “New York!” のごとくで、ここでは常にNewでなくてはならない。何故なら「止った水は腐る」であるからだ。ビジネスもしかりである!
 今や、この E.V. 地区は安全でジャパレスが100店ぐらいあり、立派なジャパニーズ社会も形成された。日本人も3〜4千人が住み、大手をふって歩けるようになった。93年にはニューヨーク青年会主催による「イースト・ビレッジ祭」が催され、1万5千人も押し寄せた。これも、これら先人たちのおかげである。
(2001年2月18日)