What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

大剛さんの死亡に心よりお悔やみ申し上げます。

伝説の「トーキョー・ジョー」こと大剛鉄之助の不屈なレスラー魂!

北米の花形プロレスラーからハンディキャップへ、一瞬にして変わった男の執念は名伯楽となった。


角界からプロレスへ
 日本の昭和60年代を象徴するキー・ワードに、「巨人・大鵬・卵焼き」があった。強い野球の巨人軍と子供の大好きな卵焼き。それと、国技「大相撲」界で「大鵬」が数々の記録を破り大横綱になり、時代のキャッチフレーズとなった。大鵬の所属する名門二所ノ関部屋では、横綱が場所の土俵へ登るつど若い力士が七人がかりで土俵縄をしめるのが日課であった。その中に「仙台幸弘」(本名、栄田幸弘)がいた。後にその将来の素質を有望視され、大鵬の付人にまでなった。
 小さい時から腕力と腰はめっぽう強く、中学校時代から早くも相撲や柔道にズバ抜けた才能をみせ、宮城県はおろか東北中に知れ渡った。
 中学校の卒業式が終わるや否や、相撲取りになりたく故郷仙台から東京両国の二所ノ関一門湊川部屋に入門した。当年16歳であった。
 冬の日でも早朝三時に起床し、プロの苛酷な稽古が毎日続き、殴られるのは覚悟して入った世界であったが、シゴキはハンパではなかった。しかし、持ち前の雑草のような根性と忍耐力でつらぬいた。そして、入門以来、順調に勝ち進んだが、それに反して、いくらチャンコ鍋を食べてもいっこうに体重は増えず、91キロの小兵であった。それでも8年間角界に在籍し、最高は十両幕下二枚目まで昇進し、高見山とも対戦して一勝一敗の成績を残したが、自分の体重の不足を自覚し、あっさりとマゲを落として、その足で第二の人生「プロレス」世界へと飛び込んだ。


ファー・イーストの星「トーキョー・ジョー」が北米のプロレス界で大暴れ
 1966年にラッシャー木村マサ斉藤豊登アントニオ猪木らがいた東京プロレスへ入団するがすぐ倒産。1967年に新しくできた国際プロレスへ新天地を求めた。そこで水を得た魚のように暴れまくり、鉄のような闘志と剛(はがね)のように強靭な体つきなので「大剛鉄之助」(だいごうてつのすけ)というリング・ネームになり中堅の座を不動のものとした。吉原功社長(故)よりプロレス的にも人間的にも大きくなれと海外遠征のチャンスを与えられた。
 72年、カナダの大プロモーターでモントリオールの団体GWA(グランプリ・レスリング・アソシテーション)のモーリス・バッションから正式な招聘が届き、国際プロレスの全員の送迎をうけてモントリオールへ渡った。
 当代、超一流の「殺人鬼」キラー・コワルスキー、「マットの魔術師」エドワード・カーペンター、“世界一の大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントらと名勝負を演じた。米国バーモント州でニューヨークの王者「人間発電所ブルーノ・サンマルチノと対戦したとき、試合前のアメリカ国歌演奏中に、リング・コーナーの最上段ロープへ、頭と足をのせ、寝たふりをしたら、たちまち館内から嵐のような反感と軽蔑が起こり、ついには警官のバリケードを破って観客が暴動化し、試合どころでなく、青色吐息でドレッシング・ルームへ逃げ帰った。コミッショナーから一週間の出場停止のサスペンションをくらったが、プロモーターにますます気に入られた。初めは「Daigo」(ダイゴー)と発音されて悪いイタリア人と間違われたり、神秘な面構えから“チンチン”とチャイニーズ呼ばわりされて卑下にあったのに、やがて、ファー・イーストの星「トーキョー・ジョー」の名が北米各地のプロモーションやファンに知れ渡り、ひっぱりだこの人気レスラーとなった。

凱旋帰国直前の大事故で脚切断
 73年3月半ばから始まる国際プロレス「スプリング・シリーズ」へ参戦するため、日本から待ちに待った凱旋帰国の命令がきた。その前に2ケ月間の契約でカナダ・カルガリーの北国プロレス王国、スチュー・ハート一家の団体「スタンピード・レスリング」よりギャラをはずむので来てくれと誘いがあった。帰国の途上のルートなので立ち寄った。日本サイドの前評判も上々となりポスターがマスコミに配られ、「カルガリーの大暴れ男」として大剛レスラーの顔も印刷された。
 3月9日。いよいよ余す所あと4日で日本に帰れる。思いは早くも友達や故郷に馳せていた。3月18日、いつものように、レスラー4人が一台の車に同乗して、カルガリー郊外のレスブリッジへ試合に行く途中であった。暦の上の春とはほど遠く、凍原の大地に低い灌木の荒野が広がり、東はるか地平線まで氷の反射で照り輝き、西には雄大なカナディアン・ロッキーの山々がそびえていた。外気は零下20度以下の極寒に達していた。空気だけが透明に抜け、天が緑色に見えた。
 いつもなら大剛が運転するのだが、この日は何故か、日本から来たての後輩デビル紫がドライブすることになった。厚い氷が、アイス・バーンのハイウェイは言うに及ばず、すべて地上を覆い、車は大自然アイス・スケート・リンクを全速力で走るというより滑っているようだった。前方の大型トレイラーに急接近し、あわてて急ブレーキをかけた瞬間、車は何回もスピンをしながらハイウェイ下の溝へ落ちてしまった。やっとのことで牽引トラックが到着した。大剛は背をハイウェイ土手に向けて漠然と車の引き上げ作業を近くで見守り、その他の人は離れたところにいた。ふと、まったく音を立てずジェット機のような超スピードで一台の車が滑り落ちてきた。「大剛さーん!」と誰か叫ぼうとしたときはすでに、両方の車のバンパーに下半身が挟まれ、万力のように締めつけられ、金属がぶつかった衝突音がどこまでも広がった。両脚がグチャグチャとなり、赤い鮮血が流れ、白い氷の上に滲んだ。
 大剛は渾身の力をこめて起き上がろうとしたが、尻もちをつき、ドッと倒れた。右脚は神経がまったく麻痺し、左脚も何千本の針に刺されたような苦痛が走った。普通の人ならとっくに失神しているはずなのに、長年の格闘で鍛えた肉体は、再び、身を立ち上がらせた。精神が異常に殺気だっていた。心臓に毛の生えたようなレスラー達も、事の重大さに皆ただ狼狽し混沌となり非叫哀号するだけたった。若者のドライバーが蒼白な顔に涙を浮かべながら謝りに近づいてきた。大剛の双眸からノーザン・ライトの稲妻が光った。髪の毛をつかむと、その頭をわき下へ入れヘッドロックした。こらえ切れない悔しさの感情が爆発し、力の限りの鉄拳の雨を降らせた。「よせ!だめだ!」と仲間がかけ寄り、やっとのことで引き離した。
 救急車がやってきた。病院へ運ばれる途中、救急隊員に脚は切断するのかと聞いても話をはぐらかされた。しかし、「トーキョー・ジョーよ、脚を失った人もいっぱいいるから」と言われて、直感で大剛は脚を切られるのだなと分かった。

医療費はカナダ政府が負担
 カルガリーのジェネラル・ホスピタルへ運ばれた。錯乱寸前となり、看護婦4人をなぐり倒してしまった。麻酔薬を何本射っても暴れまくるので、医師10人に取り押さえられ、ついにベッドにロープで巻きつけて縛り上げられた。医師から生命の保証はないと公言され、延々と10時間にも及ぶ手術が施された。右脚が膝から切断され、左脚も骨盤を開き、腰から腰棒のピンをさし込んで脚を真っすぐに伸ばし、何か所も折れた骨をジョイントして繋げられた。
 日本人プロレスラーが交通事故を起こしたニュースは、すぐTVで放送された。危篤状態のトーキョー・ジョーを励まそうとアナウンスされたため、カナダ各地の日本人から見舞いの電話や電報が続々と届けられた。一年半の入院とリハビリテーションで元気を回復した。ソーシャル・セキュリティー証があったので、医療費は250ドル支払っただけで済んだ。手術費だけでも10万ドル要したが、残りはカナダ政府が負担してくれた。そしてこの病院で「カミカゼ・ジョー」と異名を取り、勇邁な患者であったと今でも語り草となっている。

再びブッカーと名伯楽として復帰
 退院してから身体のどこかに好きなプロレスが忘れないところがあった。今度は外人レスラーをブッキングするブッカーという職に携わってこの世界へ復帰した。81年の国際プロ崩壊までブッカーとなった。84年に再び新日本プロレスの北米支部長兼ブッカーとなり、現WWEのジ・アンダテイカーになる前のパニッシャーモーガンやババ・バン・ビガロ(故)、シッド・ビシャスなど、まだ世界のトップに立つ前の未知の強豪を次々に発掘して日本へ送った。同時に新日の天山の名付け親でもあり、橋本(故)、蝶野、西村修、小島、ケンドー・カシン、真壁など、続々と若手が修行とトレーニングに渡加してきた。その都度、コーチとなり前途有望なレスラーに育て上げて名伯楽と称される。

 今日もどこかのリビング・レジェンドの集いで、誰かが伝説のトーキョー・ジョーの不屈魂伝を語りあっていることであろう。
 「人生一条」で北米大陸に根を下ろした日本人プロレスラーのドキュメントである。
 大剛氏68才は現在も元気にカナダのカルガリーに永住しており、レスラーの日加の架橋役を担っている。