What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

ニッパーのトポス

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口 
 政治経済関係ならともかく、ニューヨークでの我々の生活が地元新聞に紹介されることはジツにマレである。少ない資料を丹念に検索した結果、それでも三紙で日本人記事に遭遇した。「ニューヨーク・タイムズ」紙、「NYプレス」紙、「スピリット」紙である。アメリカ人記者たちの在ニューヨーク日本人像で、一様にステレオタイプのイメージ
である。
 アッパーに住む日本人の生活様式、余暇行動、日米の教育差などについて、87年6月9日付「ニューヨーク・タイムズ」紙のメトロポリタン欄における、ダナ・クリーマン女性記者の記事は以下である。
 タイトルは「ジャパニーズ・パワーがニューヨークで舞い上がる」である。
 「夜10時30分のグランド・セントラル駅発、ノース・ホワイト・ブレインズ行き電車は最近新しい名前がつけられ、乗客や乗務員の間で “オリエンタル・エクスプレス” と呼ばれている。それにはもっともな理由がある。何故なら、その通勤客の大多数は日本人で、仕事が終わった後日本レストランや居酒屋をまわって息抜きをしてきた者や、一日がちょうど始まったトーキョーの本社へファックスを送り終えた人々が集中して帰路につくためだ。日本から地球半分にも及ぶくらい遠いニューヨークに彼ら6万人が住んでいる。これは20年前と比較して3倍の増加である。これらの人々は大志を抱いた移民者でも、観光客でもなく、3年から7年のあいだナッソー、ウエストチェスター、ニュージャージーに住む。メトロポリタン地域を故郷というには短かすぎだが、十分にアメリカの習慣や様式と闘わなければならない。過去において、二ューヨークへ移ってきた日本人家族は言語によって孤独を感じたり、文化の違いによって当惑させられたりした。今日では、あまりにも多くの日本人がこの地域に住んでおり、彼らだけのレストラン、バー、新聞、テレビ、ゴルフ・クラブと私立学校を持っている。彼らの生活様式では、日本人バーへ行って客がマイクロフォンを持って歌うカラオケは日常のことである。また、3種類の新聞を家まで配達してもらうことも可能である。ゴルフ熱心な日本人は、あるゴルフ・クラブのビジネスを変えてしまった。ベッドフォードヒル地区レイクオーバー・カントリー・クラブの支配人ジョー・ホベ氏はメンバーの20%が日本人となり “私は一年間にゴルフの帽子をたった8ダースしか注文しなかったのに、現在、40ダース以上を注文している。日本人はロゴが付いていれば何でも好きである。” という。」
 こうしてハイ・ブロウを謳う世界一の新聞で日本人はロゴが付いていれば何でも好きで、ロゴ付きであれば何でもよいと、半ば皮肉と軽蔑のマナコで看做されている。
 一方、91年3月13付、無料週刊新聞「NYプレス」紙は、「ハウストンとその周辺」欄で、フィリス・オリック記者によるダウンタウンイースト・ビレッジ日本人殺害事件を巡っての狼狽と、日本人コミュニティーのヴィヴィッドな実態を描いている。
「36才のレストラン・オーナーのヒデトシ・コサイが、2月1日にイースト・ヴィレッジのアパートで白昼強盗により殺された時、彼の殺害事件はニューヨークのメディアに軽く扱われたが、彼の故郷の日本の新聞では一面記事となり、また、重大事件としてテレビ・ニュースで放送された。コサイの横死は前進基地として、ニューヨークは日本人とってあまりにも危険だとし、ここに転任になった企業の重役は危険職務手当が支払われる。一方、若い日本人たちは、高度に組織化された伝統的な日本人社会の束縛から脱出できる場所として、アメリカとニューヨークを眺めている。コサイの死は彼らのコミュニティーを震撼させ、予定されていた祭りを中止させるほどであったが、なぜアメリカへ惹きつけられるのかの質問に、大多数が独身で若いイースト・ビレッジの日本人は “ここでは自由が感じられる” と述べた。また、イースト・ビレッジになぜ魅せられるのかに対し “ニュー・ファッションと多くのミュージシャンの発祥地であるから” と述べる。日本人のワイフを持ち、1979年以来ここに定住し、日本人コミュニティーと地元社会の橋渡し役をしているジェフリー・ナチミエ氏は、“ここでは、大成功している日本人はたった2、3人にすぎない、彼らの大多数はここのジャパニーズ・レストラン・ブームでやってきた。そして、誰もが音楽の夢やある種の雄大な野心を持っているようだ。” という。“キー・ポイントはニューヨークへ来た日本人には二種類のグループがあることだ。一つのグループは企業の派遣で来た人々である。彼らは家族とやってきて1年から3年おり、一般に、郊外やミッドタウンに住み、ニッポン・クラブのような多くの支援機関を持ち、入会費5千ドルで、酒やお茶を飲んでくつろげる社交場を持っている。ところが、イースト・ビレッジに住んでいる人々はすべて自前で行い、そして、なんの庇護もなく成功することが出来る。すなわち、彼らは根性のある人々で、基本的に正直で、大変に働き者である。私が10年間に金を乞われた日本人はたった一人で、彼はサキソフォン演奏者であった。しかし、彼らのアメリカ文化に対する情熱にもかかわらず、日本人コミュニティーはまだ大変に控え目である。私がコサイ殺人について、より多くの事情を知ろうと地元警察へ電話したとき、私と話した警官は、ここに日本人コミュニティーがあることを知らなかったと冗談を言った。” ナチミエ氏は驚かない。“日本人はアメリカ人から見えない。なぜなら、誰も警察には逮捕されないからであり、日本の人々は手錠をかけられて連れてこられないからである。” と述べる。」
 犯罪を犯さない限り、限りなく透明に近いイエローというか、アメリカ社会で「不可視」の我々である。社会学アルフレード・シュッツに「非在人間」という理論がある。そこに居ても全く存在してないように振舞う人を指す。まさしく、カブキの「黒子」のような存在なのである。
 他方、もうひとつ、91年6月18日付、無料週刊新聞「スプリット」紙は、上記の「NYプレス」に触発されて「呼び物」欄で「若い日本人が無法地帯を散歩する」と題して、イースト・ビレッジの日本人若者たちの当地へ来た動機を探り、学者の分析を載せている。
 「イースト・ビレッジの1900年代には、東ヨーロッパのユダヤ人移民、イタリア人移民の流入があり、第2次世界大戦後はポーランド人とウクライナ人がやってきた。50年代、60年代はビートニクとヒッピーである。そして、最新の波は若い日本人たちである。イースト・ビレッジを代表するところのアーティスティックやエスニックな雰囲気を求めてやってくる。一説によるとその数6千人ともいわれる。コロンビア大学社会学者ヒロシ・イシダ教授は “彼らは日本の雑誌を読んで、イースト・ビィレッジがどんな所で、どれほどトレンディーな場所だかを知っており、東京にあるファッショナブルな街へ行くような気分でくる。だから外国へ行く気分ではなく、ただ生活を楽しむためにここに来るのである。その上、円高のため日本から持ってきた金で普通のアメリカ人並みの生活をすることは容易である” という。日本レストランで働いている男性(26才)にとって、世界旅行の果てに最後に行きついた所がニューヨークであった。“4年間オーストラリアにいて、飛行機のチケットが日本へ帰るより安かったのでニューヨークへ来た” という。そして、“日本で働けば、将来が見えてしまうが、ここでは制限がない。新規から始められる。”」
(1993年8月20日付、ニューヨーク情報誌OCSNEWS掲載)