What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

プロレスラー、マサ斉藤先輩との思い出!

先日、日本からの一通のメールでマサ斎藤先輩の死去を知り、色々な思い出が頭を駆け巡った。

私がアメリカのプロレス・マスコミに入ったのが80年代始めで、マサさんが81年にニューヨークのMSGが本拠地のWWF(現WWE)へ参戦してきた。当時はまだ、MLB (メジャーリーグベースボール) にさえ日本人プレイヤーの入団が難しい時代で、アメリカ・メジャープロレス団体WWFでは60年代のジャイアント馬場以来の日本人の入団を果たした偉業であった。口八丁のキャプテン・ルー・アルバーノをマネジャーに得て、ミスター・フジと日系悪役タッグチームを組みミスター・サイトーと名乗って暴れまくり、その胸板の厚さと肩筋肉の凄さで観衆を圧倒して、日本人として初めてWWFタッグチーム王座に就いた。当時、ニューヨークより1時間の距離のコネティカット州にアパートを借りて住んでいてフジの運転で東部一帯を駆け廻っていた。月1回のMSG定期戦が開催され、登場の都度、取材に行った。ある日、試合前に、分厚い札束の入ったサイフを預かった。試合が終わりシャワーから出てきたマサさんへサイフを渡すと、もう、ここWWFでは超売れっ子で年間380試合をこなし超多忙で、銀行に預けに行く時間がなくて、現金が溜まる一方だと言うことだった。


83年末よりミネソタ州ミネアポリスが本境地のAWAへ転戦して、よく取材に行った。当時、マサさんの明大レスリング部の後輩で、私の先輩のマネジャーのタイガー服部先輩と郊外のアパートに一緒に住んでいた。空港に着くと必ず到着ロビーの路上で、律儀に大型のキャデラックで待っていてくれた。帰宅途中にチャイニーズのテイクアウトへ立ち寄り購入してくれた。AWAのTVスタジオでは御大のバン・ガニアを筆頭にホーガンやケン・パテラやブラッド・レイガンスなどが顔を並べていた。明治大学の学生服を着て、大きな日章旗を掲げた服部さんが「マサ・サイトー・イズ・グレート・オリンピア・レスラー」と紹介してマサさんは頭に鉢巻をしてオレンジのガウンをまとい、怖い鬼がわらのような面構えを作っていた。仕事が終わるとアパートで宴会が始まる。マサさんはビール党だった。日常生活のことやプロレスのことなど色々話した。マサさんはサンフランシスコ時代に日本人のえっちゃんと結婚したが離婚し、その後彼女はサンフランシスコのジャパニーズタウンで大きなスーパーマーケットを経営していると言っていた。また、好みの女性のタイプはあんこ型のほっちゃり太った女性だと言っていたが、その後、まさしくその好みのタイプであるテリーさんという可愛くてぽっちゃり型のアメリカ人と結婚した。

84年にウィスコン州で、パテラと一緒に警官をぶん殴り器物損壊罪で有罪を受け、1年半も刑務所に入り、慰問と出所祝いで2回会いに行った。86年末の出所日にミネアポリスからテリーさんの運転で東京スポーツ新聞社の柴田記者と共に取材を兼ねて同行した。もう、アパートに帰宅したら一刻も早くテリーさんと二人きりになりたいとう雰囲気で、その日は我々が気をきかせて深くは取材をしなかった。 

99年2月14日、日本武道館で盛大なる引退試合が催された。控え室には同期の桜である明大レスリングの人々が大勢駆け付けた。試合後、六本木のハードロック・カフェで打ち上げパーティが行われ、最愛の倫子夫人が付き添い、マサさんは満面笑顔を浮かべていた。その時、記念にイラスト入りのマグカップ(写真)をいただいた。GO FOR BROKE!! (当たって砕けろ!!)と言葉通りのプロレス人生を過ごされた。

2003年頃、マサさんから、突然、国際電話があった。「プロレスをやった結果だと思うがパーキンソン病にかかってしまったよ」といわれた。「先輩、今は医学が発達して治療すれば、すぐに、よくなりますよ」、と返答した。

その後、リハビリが順調に進んでいると聞き及び安堵していた。

2010年頃、WWEへ取材に行ったら、エージェントで昔のサンフランシスコ時代からのマサさんの親友のパット・パタソーンさんからマサ斎藤はどうしているかと近況を聞かれた。それはきっと近いうちに、アメリカプロレス界で最高の名誉であるWWE殿堂入りではないかと思っていた。

慎んでマサ斎藤先輩の御冥福をお祈り致します。