What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

 その時、咄嗟にでたウソは「ブルース・リーのお墓参り!」でカナダ・アメリカの国境のイミグレーションを突破したニッパーの逸話!

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口 
 その昔といっても、今から約20年前、筆者はハーレムの中学校前を歩いていたら、突然、クラスの授業をそっちのけで、珍しい東洋人の私を見つけた生徒たちが窓より大声で「ブルース・リーブルース・リー!」と叫び、いつのまにかシュプレヒコールの雨となった。当時、タイムズ・スクエアーの映画館ではブルース・リー主演「Enter The Dragon(邦画題名:燃えよドラゴン)」が記録的にロングランされ、アメリカ中で神秘的なオリエンタル・マーシャル・アーツのカンフーや空手が大ブレークしていた。とくに、この国のマイノリティーである第3世界出身の人々にとってブルース・リーは偉大なスーパー・ヒーローであった。
 そのヤング・ニッパーは空手やプロレスや格闘技が好きで、いつかその道へ入ってみたいという憧憬を描いていた。あるとき日本でスポーツ雑誌をめくっていたら、有名なニューヨークの日本人主宰の某マーシャル・アーツ道場(本当の名前は出さないでくださいよ)の内弟子募集広告をみつけた。このさい本格的に習ってみようと思った。その上アメリカへいけるので、即座に応募した。アメリカ滞在3ヶ月以内ならノー・ビザだが、6ヶ月間のトレーニング・コースの書類が送られてきた。それを地元福岡のアメリカ大使館へ提出したらすんなり観光ビザが下りた。それで91年にニューヨークへきてその道場へ入門した。だが一般的に初歩の基礎コースを学ぶだけでも1年ぐらいかかると分かった。すぐ6ヶ月がすぎ、あっという間に1年が過ぎた。そのあたりで、長年日本で貯めてきたお金はまったく底をついてしまった。背に腹はかえられぬ。不法ながらダウンタウンにある日本のお弁当屋さんで朝の6時の仕込みから午後の3時までバイトをはじめた。それから地下鉄で道場までいき、ビギナーの子供のコースのインストラクターを受け持たされ、次に自分の練習をした。稽古が終わってから最後に広い道場の掃除洗濯整理があった。慌ただしく時間が過ぎ、すぐ真夜中となり、すぐ次の日が来た。毎日毎月毎年がただ弁当屋と道場間の往復であった。住む方はラッキーにもすごく環境のいいミッドタウンの73丁目のウエストサイドが見つかった。レント・コントロールのアパートで家賃はたったの月300ドル。その値段はニューヨークでもメチャメチャに安く友達の紹介であり住人が出るというのでその後釜にすんなりと入ったのだ。すぐ下にチョー有名なジョン・レノンの住んでいたダコタ・ハウスがあり、上には自然博物館があってセントラル・パークの西側の最高のところであった。アパートは日本人のみだった。それはユダヤ人の大家が金払いのきちんとしている日本人を最優先して入れたからである。ただ一部屋のスタジオにはシャワーもトイレも水もなく共同使用であった。が、それでも住まいに関しては十分に満足した。
 道場は人間形成というか精神修行の場であるからどんなに働いても無料奉仕が前提であり、いつのまにか、2年、3年とズルズルと歳月がたってしまった。もう、ほとんどある種のカルト的新興宗教団体の一信者みたいなものであった。結局、内弟子とは名ばかりで、使い捨ての雑用係にすぎず、何年、滅私奉仕してもビザのサポートはないと判り、師範との関係も次第にギクシャクしてきた。ともかく、ここは一回、日本へ帰ろうと一時帰国を決心した。ビザはとっくの昔に6ヶ月が過ぎ、ちょっと5年も切れている。もう一度戻ってくるときはビザのステータスをきちんとしてこなければ駄目だ。だが、帰る金がない。弁当屋で一生懸命汗水たらして働きやっとお金をためた。荷物などはアパートへ置いといて、また、日本より戻ってから次の人生の段階を考えればいいや、、、と。まず長期不法滞在しているので今度アメリカへ再入国するには学生ビザしか方法はなさそうだ。だが今更、英語学校へ通うのもダルイし、各種の書類をそろえるのも面倒そうだ。そうしたら、ある人からブロードウェーのダンス学校が一番授業料が安くて簡単に入れると教えられた。そこはお金さえ払えば学生ビザのI-20(アイ・ツウェンティー)を発行してくれ、適当なダンスのクラスをとって体を動かしていれば O.K.だ、といわれた。健康にも一番良さそうだし、これだと思い、すぐその学校へいって入学願書をもらい、ついでに「実は、日本でショーをしていたが、もう少しステップの勉強をしたいので!」とウソをついて、その学校の英文推薦文を書いてもらった。これを日本のアメリカ大使館へ学生ビザ申請時に添付すれば絶対に大丈夫だ。安心して何の不安もなく帰国した。
 5年ぶりの故郷の日本であった。3ケ月いるあいだに、1ー20の書類や銀行の残高証明書や資料を出して学生ビザを申請したが「NO」とパスポートの後ろにハンコを押されて却下され、送り返されてしまった。だけど、もう、駄目といわれても荷物はニューヨークのアパートに置き去りである。このまま日本に滞在してぐずぐずしていると逆にキープしているアパートのレント代が過重となってくる。ここは、ともかく、学生ビザはひとまず措いて、観光ビザでもいいから早急にニューヨークへ戻ろう。だが、前回のやばい前歴がある。いろいろな人から話を聞いているうちに、今、ダイレクトにアメリカへ再入国すると、イミグレーションのコンピューターに昔の記録が出て発覚した場合、その場で即日本へ強制送還され、生きているうちは二度とアメリカの土を踏めなくなる、という。だから、ワン・クッション置いてカナダよりアメリカへ入ったほうがいいと耳打ちされた。その場合、二つのルートがあるらしい。カナダの東側の大都市トロント経由か西側の大都市バンクーバー経由である。トロントからだと「ナイヤガラの滝」というチョー有名な観光名所があるので「ちょ〜っとナイヤガラの滝をアメリカ側より見ま〜す」という気持ちで他の観光客と一緒に入ってしまうパターンか、それとも、バンクーバーから「ついでに隣のアメリカ側のシアトル迄観光の足をのばしに来まし〜た」という気分で入ってくるパターンかである。後者だと空路、陸路、船路と各種バラエティーに富み、とくに、陸路は電車とバスがあるというので、取り敢えず、これに決めた。一番安い KALのバンクーバ間往復オープン切符を買っておけば、また、カナダへ戻ってくるという言い訳も成り立つ。無事、ソウル経由でバンクーバーまで来た。余分な遊ぶ金がないので一番安いユースに泊まりながら軽くバンクーバーとビクトリアの街を2日間で観光し、何とかして一刻も早くニューヨークへ戻らねばと気ばかり焦っていた。バンクーバー滞在3日目で明日は「国境突破!」しようと強い決断をした。だが、万が一、前歴がバレたら不安だ。就職の面接以上に考えれば考えるほど憂鬱となり、全身の力が抜けそうだった。ここは体力をつけねばだめだと自分にいいきかせて、それほど食欲はないが何でもいいから腹へいれとこうと、思い立った。「そうだ!」外国で日本人に一番安くて口にあう料理はチャイニーズである。観光案内書にも大きなチャイナタウンがあるとあった。山と海に囲まれた夕焼け時の風光明眉な街中をとぼとぼ歩いてチャイナタウンへ向かった。$3.50の御飯の上にオカズが載っているオーバーライスを食べた。帰り際、何となく頭を持ち上げるとチャイニーズのオミヤゲ店に飾ってある空手の「ヌンチャク」がピカと目に飛び込んで来た。ガラス越しに不思議なオーラというか、霊気というか、キラキラする光りを放ち何かを訴えかけているような気がした。「あれー!」それは道場で練習の時によく触っていたあの「ヌンチャク?」じゃんという感じで、別に珍しいものではないが何故か心が動かされた。店内へ入りよく手にとって見るとゴム製で出来たチャチな子供用のオモチャであった。本来、本物は木材や鉄製で出来きており長さ30センチぐらいの円筒形の二つの棒が鎖で結ばれたものであるが、それに似せたイミテーション品であった。ま〜あ、たったカナダ$2だし、いつか振り廻しながら歩くものいいかなと思って買っといた。それで、ユースで知合った日本人の旅行者によると、どの道、所用時間2時間ぐらいでアメリカ側へ着き、グレハンのバスだと国境で一旦降りてパスポートを見せてからイミグレを通過するが、電車だと係官が車内へやってきてそのまま簡単な検査で終わるというので、断然、簡単な方の電車で国境を越えることにした。その日、無事の門出を祝うかのごとく快晴であった。胸にラッキーのおまじないを唱えながら、いざ鎌倉した。一番安いシアトル行き2等切符を駅で購入し、出発のプラットホームの方へ向かった。10メートルも進むと人波がゆっくりしてきた。一人ずつイミグレーションの順番を待っているのである。「あ〜じゃん。こんなところにイミグレがある!」こんなはずではなかったのに、、、。その瞬間、目の前が真っ白になった。よく見るとコンピューターも置いてある。「あ〜あ、これに出たら一生のオシマイだ!」と足がすくんだ。今更、元へ引き返せない。そんなことをしたらより怪しまれる。外人の観光客は楽しそうに並んでいる。もう「運を天にまかせる以外にない」と観念した。自分の番がまわってきた。内心ドキドキしながら神妙な顔をしてボックスの中に座っている審査官の前へ立った。パスポートを出すなり、いきなり、中を見ずノー・ビザ観光用「グリーンIー94フォーム」はあるかと聞かれ「No.」と答えたら、すぐに書き込んでこいと命令された。これさえ書き込めばO.K.だろうと、多少の安堵の胸をなでおろした。それで、また、同じ審査官の長い列へ並んだが他の空いている審査官の列へ並べと係官に指令されそちらの方へ移動した。すると、えらく若い白人の審査官であった。マニュアルを今教え込まれたばかりの新米ホヤホヤの融通がまったく効かないヤツであった。200%疑いのマナコで目を皿のように大きく明け、重箱の隅をほじくるかのごとく色々な質問を矢のように浴びせてきた。そして、パスポートのラスト・ページを見て「貴方は一回、学生ビザを申請しているが、本当はアメリカでの長期滞在が目的だろう?」と図星で見抜かれた。ここで「Yes.」と答えたら即お終いだ。至極、平静を装いながらあまり上手でない英語で「No, I have a job in Japan. I just want to go sightseeing in Seattle.」と応答した。さらに「One week in Seattle, because I have a return ticket.」といってサイフから実際に航空券を取り出して見せたら「No!」と一喝却下され、後方の取り調べ室へ行くようにと促された。もう、喉はカラカラだし、冷汗は出るし、首をうなだれながら全生活物が入っている重たいリュックを引きずりながら中へ入った。ガラス張りの部屋で、大きなスター&ストライプのアメリカ国旗がたてかけてあった。白の開衿半袖シャツにアメリカの国旗のワッペンを肩に付けブルーの制服ズボン姿の厳めしい顔の審査官がアリ一匹通させまいと、脇を固く絞って仁王立ちで待っていた。怖怖、顔を一瞥した。よく見る白人のオジさんで短い GI カットの髪は正義感に溢れ、清潔潔癖なピューリタンを表象しているようであった。「や〜べ!」と思わず肝が震えた。オシッコをちびりそうになった。その審査官は無言で荷物を指差したので、テーブルの上へ置いた。すると、おもむろに「Open the bag!」とドスの効いた恐い声で命令され、言われた通りジッパーを開くと一番上にあったオモチャのヌンチャクが出てきて、更に下着類が出てきた。次に前の審査官と同じように「Where do you go?」と尋問され、前回同様に「Seattle.」と答えた。すると「Why do you go to Seattle?」と質問された。一瞬、返答に言葉を失ったが、わずかの沈黙後、そのとき、なぜかは知らないが、頭にピーンと閃いたものがあった。そだ!「Seattle has Bruce Lee's tombstone and I have been practicing martial arts for long time, so he is my greatest hero. He is my God!」とその時は自分でも驚くほど流暢な文句の英語のフレーズが口からスラスラと出た。しっかりと相手を睨み一心不乱に「Please!」と悲壮嘆願の顔をした。その審査官は「何だ、このガキは、何か訳のわからない戯言を言っているのだ?」という当惑と疑惑の態度でおもむろにヌンチャクを取り上げた。「What is it?」といいながら首を傾けた。そこで、乾坤一擲。このチャンスをのがしてなおかつ変な尋問をされたらお陀仏だとおもって「Just wait a moment!」といいながらそっと手をのばしてヌンチャクを取りかえした。ジャンパーを脱ぎ、Tシャツ一枚となった。一呼吸してから、やおら気合いのはいった直立不動の姿勢をとった。しっかりと大きく目をあけ、足幅を広く、背筋をピーンと伸ばして胸をはった。ゆっくりと四方へ空手の礼の挨拶「オッス!」の声を軽く張り上げながら深々と頭を下げた。しくじったら一巻の終わりだ。その瞬間、全神経を集中させた。ヌンチャクの両端を握り、ピーンと横一直線に伸ばしながら、静かに目線の高さまで腕を持ち上げた。

そして、始めはゆっくりと、遠心力を最大限に活用しながら小さいスイングから大きなスイングへ、次第に早くスピードを上げ、ヌンチャクを前後左右上下と回転させ、左手右手と交互に持ち変えながら「シューツ、シューツ!」と審査官の鼻先が空気で切られるのを感じられるほど、プロペラのごとく強く振り回した。ついに、目も止まらぬ早さの電光石火の速業となった。一生一代の見事な演武を披露したのだ。呆気にとられたようだった。終わると、また、四方へ礼儀正しく頭を下げて「オッス!」と大声を発し、バッチンと「ヌンチャク止めポーズ」をカッチョよくきめてそれを返還した。最後に「これはゴム製のオモチャだから安全だよ」と念の為に強調した。それまであからさまに尊大卑下の態度で見下していたのが少し和らげ、苦虫を押しつぶしたようなビジネスライクのフェイスが崩れニガ笑いした。「も〜う、しょうがない!」と両肩をすくめ、その審査官は半分あきれながら、ついに、微笑でもって、ポーンと拳骨をテーブル上へ叩くと一言「Go!」とドアの方を指差した。もう、喜び勇んで電車へ飛び乗った。
 後年、本当にワシントン大学の見えるシアトルの山の手、キャピトル・ヒルのヴォランティア公園に隣接したレイクビュー霊園を訪問した。ブルース・リーの墓へ花束を捧げ「その折は有難うございました。」と黙祷をした。その墓には「霊魂は我々個々を解放へと導くものである。」と銘記されていた。
(1994年)