What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

NYのニッポン人の精神性について!

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口

 今も地球上でカナン(約束の地)といえはアメリカであり、今日も続々と世界中から人々がこの国へやってくる。なかでもニューヨークほど金銭的文化的な夢をかきたてる都市は他にない。そして、チャイニーズの来るところチャイナタウンとなり、ジャーマンが来るところジャーマンタウンとなり、イタリア人の来るところリトル・イタリーとなり、ニッポンジンの来るところリトル・トーキョーと呼ばれるが、今イチ、我々日本人は同胞同士の結束力が弱い。
 2001年3月16日発表「アメリカの国勢人口調査2000年」によると、ニューヨーク市の人口はヒスパニック系とアジア系の激増で10年前より100万人増加して過去最高の800万人と公表された。在ニューヨーク領事館は99年の調査で日本人が10万人ぐらい住んでいると推定している。本国の外務省も約6万といっている。もちろん、それは、在留届けを出した日本人の数だけであり、一身上の都合で拒否してる邦人や短期出張者や不法在留者の数は含まれていない。 
 アジアより同じジェット機で同じくらいの時間をかけ、同じタラップを降り、同じようにこの国の土を踏んでも、生涯の永住の地と誓った彼等、中国人や韓国人と、我々日本人とでは最初から生きるバイタリティーの土俵がおのずと違ってくる。雲泥の差というか天と地の開きがある。
 たとえば、中華人民共和国から美国(アメリカ)へきた中国人のオバチャンはNW18便で北京―デトロイト―紐約(ニューヨーク)に到着するなり、その足で、マンハッタンの中城(ミッドタウン)の韓国雑貨問屋街へ直行して、手真似とかリンガ・フランカでコミュニケーションを計りながら虎の子の全財産をはたいてニセのカルバン・クラインの香水やニセのルイ・ヴィトンのバック等有名ブランドのニセ物をごっそりと買い漁り、それから、必ず、ゴザを一枚購入する。そして、早くも、JFK到着3時間後、正確には郷土の福建省の田舎の家を出てから23時間45分12秒後には、唐人街(チャイナタウン)の路上でそのゴザを広げて、しっかりと美国の大地に足をつけて、商売、つまりアキナイし日銭を稼ぐ。男性ならマンハッタン橋下のエルドリッジ通り沿いにある職業紹介所へ直行し、そこではくまなく全美国中(ネーション・ワイド)の中華飯店ネットワークが張りめぐらされていて、その場で雇用契約書にサインし、その場で飛行機の片道切符を渡され、その場から一人で科羅多州丹弗市(コロラド州デンバー)の田舎のさらに奥深いロッキー山脈の「幸福楼飯店」とかのシェフとして出向くのである。さすが4千年の歴史の民であり、これぞ唯物主義の国からのイミグレです。
 韓国人はJFKに到着するなり、厚い電話帳を根気よく調べて同性の李さんや朴さんに目標を定め、片っぱしから電話をかけていかなる遠い親戚のまた親戚のまた親戚を捜し出す。そして、彼らにこの国でのスポンサー用のサインを貰ってイミグレへ直行し、永住権だけでも、一応、申請しておく、といわれる。いつ何時、法律が改正されたりして、棚からぼた餅式に獲得できるからわからないですからね。そして、韓国人社会で見られる “講” へ加入してお金を借りて1ケ月後にはクリーニング屋や八百屋を開店する。
 それに対してニッパーというかニッポン人は、まず、夏ならツルツルとソバをすすりながら、また、冬なら鍋物でもゆっくりとつつきながら、のんびりと乾杯の音頭でもとって引き継ぎパーティーやら歓迎飲み会やらをこなして、おもむろに、ハーツデールやスカースデールの高級住宅地からのコミューターとなる。(エッヘン!)どうも同じ農耕民族出身といえども、我々は、イマイチ、血圧が低いというか、瞬発力に欠けているきらいがあるようです。
 それでは大多数のニッポン人はどの地域に住んでいるのか?大別するとアップタウン居住者とダウンタウン居住者の2種類に分別できメンタリティーも違っている。よりアッパーへ行けば行く程、社会的に成功した者と看做されている。逆に、ダウナーへ下がれば下がる程落ちこぼれ人間と看做されている。そんなことないのにね!世界的に有名な文化人類学者の山口昌男さんも住んでいたのにね!この異なるトポスにおけるニッパーの生活はお互い同じ菊印パスポートの所持者でありながら、邦人の事故などが報道されると反目反感したりする。
 まず、ダウンタウンで最も多くのニッポン人が住んでいるのはイースト・ビレッジ地区である。1960年に、ウエスト・ビレッジに対抗して不動産屋が付けた名である。地理的にはマンハッタン島のダウンタウンに位置し、西はブロードウェイから東はアルファベット・シティー迄。北は14ストリートより南はイースト・ハウストン迄の地区を指す。E.V. のメイン・ストリートはセント・マークス小路で1795―1799年に建設された St.Mark 教会の名前から由来した。歴史を遡れば、この地区に1840年から1880年にかけて、いわゆる旧移民(主にアイルランド人、ドイツ人、北欧)の波が流入した。今でも、1854年創業のニューヨークで2番目に古いアイリッシュ・バー「マクソリーズ」が7ストリートで営業している。1880年代からは新移民(主にユダヤ人を筆頭に、イタリア人、ポーランドウクライナー人)が押し寄せてきた。戦後はプエルトリコ人が移民してきた。そして、50年代、60年代はビート族やヒッピー族がここをホームグランドとし、そして、最新のニューウェーブはニッポン人である。80年代の日本のバブル最盛期には6千人ぐらい住みついていた。
 94年12月4日付「ニューヨーク・タイムズ」紙に「イースト・ビレッジは厳格な家庭から逃避した “学生” のための遊び場である!」というジェニファー・スティーンハウワ記者による記事がある。「ようこそ9ストリートへ。クイーンズのルーズベルト・アベニューのコロンビア人街、イースト6ストリートのインド人やパキスタン人街、西32丁目のコリアン街のように、エスニックの痕跡が見られるアーバン・メタモルフォーゼの一つである。9ストリートを中心にジャパニーズの小さいコマーシャル・コミュニティーが出来ている。この5年間に広がり、学生ビザの若い数千人のジャパニーズがイースト・ビレッジへ大挙流れこんだ。彼らは良い仕事をやめ、夢と希望を求めて、エスケープしてやってくる。“日本は大変に保守的な国である。” と29才のシンジ・イシオカは言う。“たとえば、自分のパーソナリティーセクシャリティーを公に出すと人々は卑下するが、ここでは誰も何も気にしない。それがここに来た理由だ。” という。3アベニューとアベニューBの間、2ストリートから12ストリートまでの間には、日本人経営の店が25軒以上もある。10年前はたった2軒であった。大きく発展したのはこの5年であると、ケン・クサカベは言う。9ストリートの2アベニューと3アベニューの間には指圧シャンプー付きのヘアー・サロンや日本語のビデオ店やジャパニーズ・レストランなど7軒ある。また、日本酒だけを扱った小さなサケ・バーまであり、これらはジャパニーズをターゲットにしている。8ケ月前に開店したパン屋は、フランス菓子以外に、野菜カレー・パン、グリンピース・パンやメロン・パン、SUKIYAKIピロシキ、ヤキソバ・パンも売っている。」と紹介している。
 95年10月1日発行ミニコミ紙「ジパング」によると、「イスート・ビレッジのジャパニーズは70年代初めからポツリポツリと勇とうな日本人アーティストが屯田兵のようにこの地に住み始め、80年代の日本の雑誌の特集につぐ特集で、アッという間に若い日本人の皆様方のフェイヴァリット・プレイス第一位になってしまってこの土地の日本人人口は増加の一途をたどっております。なんでも日本人の独身女性の数が多いのですって!」と記されている。
 今やここは21世紀のリトル・トーキョーであり、もはや、お好み焼き店、おでん屋からフィギアー店、スーパーまで100店ぐらいこの界隈にのきをつらね、ないのは日本人経営の葬儀屋ぐらいである。こうして、アッパー系とは異なり、何ら社会的な後ろ盾もない E.V.ニッポン人が草の根的に集合して1988年には立派な「ニューヨーク青年会」という日本人コミニュティーが作られた。やがて E.V.の秋の風物詩ともいうべき数万人が繰り出すお祭りまで催されるようになった。
 ところで、こうした中、1991年2月1日、不幸なことに E.V.で我らニッポン人のホームボーイが殺害されるというショッキングな事件が起こった。1991年2月4日付「読売新聞」[ニューヨーク3日=藤本直道] ニューヨーク市警第9分署によると、1日昼前、ニューヨーク市マンハッタン区2番街のイースト・ビレッジのアパート7階でスナックのマネジャー、小佐井英利さん(35)=熊本出身=と同居人のフリー写真家、高橋淳一さん(27)の二人が寝室で血まみれになって倒れているのが同じアパートの人に発見された。小佐井さんは胸や腹部を刺されており死亡、高橋さんは首が切れて重傷。現金とカメラが盗まれていたという。犯人は逃亡した。」とある。後日、2人のアフリカン・アメリカンの若者二人が逮捕された。
 この事件に対して、ニューヨーク情報誌「OCS NEWS」へアップタウン住人より、ダウンタウン住人を非難する手紙が拙者のところへ転送されてきた。「大体、イースト・ビレッジは麻薬中毒者やアル中毒者や失業者などが溢れ、ニューヨークで最も危険な地域であり、英語もロクに出来ないアーティストの夢を破れた日本の若者達がお互いに傷口をなめあっている日本人部落である。それに対して、私達アップタウンの住民はしっかりした企業で働き、身の安全の為大金をはたいて24時間ドアマン付きのアパートに住んでおり、だから、あなた達は自業自得だ。」という。
 まったく同胞として、シンパシーのかけらもなく、親指を下にして非難卑下していて考えられないくらいの高慢な態度である。しかし、これがアップタウンに住むニッポン人の一般的な正直な感情なのである。
 最後に、我らの眷恋(けいれん)の地にて、志なかばで悲運な最期をとげたニッパーBros.コサイさんの御冥福を祈りたい。
(2001年5月16日)