What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

平成版浦島太郎物語

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口
ニューヨーク・ジャングルから20年ぶりに祖国へ生還した、あるニッパー・ブラザーのおはなし!
 ジャングルとは元来の意味での熱帯密林に対して、産業都市と成った後の社会的状況をメタフォリカルに指すこともある。すると、それはニューヨークに顕著である。アーバン・ジャングルとかアスファルト・ジャングルと形容され、ハーレムで演奏していたジャズのデューク・エリントンは、トム・トム(アフリカ太鼓)の音に管弦楽器を伴わせて独自に“ジャングル・ミュージック”と称していた。竜宮のようなジャングルに魅せられ、そこで音を聞いたり奏でたりしているうちに、あるニッパー・ブラザーは5分の1世紀がたってしまった。

出立のころ
 むかし、むかし、ライス・ファーマーの三男(23歳)がいた。50歳に近い両親と田舎に住んでいた。日本的家督制度では通常長男が家を継ぎ、三男あたりはどうでもよい存在だった。猫の額ほどの土地をもらってファーマーになる気もなく、それより何より狭い田舎を飛び出し、世界中を回ってみたかった。
 今から26年前の日本。ソ連国籍の船が汽笛を鳴らすと、山下公園のハトがいっせいに空高く舞い上がった。船体は静かに岩壁から離れていった。船室は3等の雑寝部屋であった。当時はまだ1ドル=360円の時代であり,外貨持ち出しが制限されていたが、それでも青年たちは荒野をめざし、北欧の金髪をめざし、何でも見てやろうとドシドシ海外へ出ていった。
 彼らが海外で出会うとお互いを旅人と認識した。あてもなく、ノマドのごとくブラブラと異国を放浪し、行き当たりばったりの国でバイトして、次の旅の費用を稼ぎ、また旅を続けた。現在では信じられないが,当時,世界で最もバイトの稼ぎの良いのがニューヨークであった。日本を出たときは1万円しかなかったが,ニューヨークから帰ったときは100万円あったなんていう話はざらだった。あるいは日本レストランの皿洗いを三軒かけもって一年間猛烈に働き、南米の美人の産地コスタリカあたりでサーバント2、3人を雇い,4、5年寝て暮らすパターンもあった。
 日本海を小さな木の葉のように揺られてナホトカに着いた。ハバロフスクから4日かけてシベリアを汽車で横断してモスクワへ。そして白夜の世界で、最初にポルノとヘアー解禁に踏み切ったスウェーデンを表敬訪問し、ドイツでは針金細工の人形を作って路上で売り、ウィーンで日本レストランの皿洗いをし、トルコで子供から石を投げられ,イランで野宿していたら夜盗に襲われ、南米をくまなく回り,ブラジルで日系二世の家にお世話になり、アマゾンでマラリアにかかって九死に一生を得、ニューヨークに漂着したのが74年であった。ほんの1、2ヶ月の滞在予定であった。もちろん、ビザはアメリカに6か月いられる観光ビザであった。

ジャズに夢中
 ヒッピー時代の熱気がまだ冷めやらず、東海岸のヒッピーの聖地とうたわれたイースト・ヴィレッジはへんな臭いのケムリが町全体をおおいつくし、マンハッタンでも指折りの安いレントのアパートがある場所であった。そこにスニーカーを脱いだ。この頃ニューヨークはフリー・ジャズが全盛だった。セント・マークスとサード・アベニューのコーナーにあったライブ・ジャズの「ファイブ・スポット」という店の前を通ると、魂を揺さぶるような強烈なサウンドが聞こえてきた。旅の放浪でくすぶっていた気持ちが燃え上がった。黒人社会の喜びや悲しみから生まれてきたその音楽に魅惑され、ジャズにハマってしまった。
 “詩人とジャズ・ミュージシャンは生まれるもので、作られるものではない”という格言があるが、彼はこの都市で自分を作り変え新しく生まれ変わりたかった。狂的にジャズ・プレイヤーになる決心をした。オーネット・コールマンやマイルス・コルトレーンのレコードを買い集めた。テナー・サックスのデクスター・ゴードンが気にいって、ラッパ屋になることにした。中古のサクソフォーンを買い、日本人のジャズ・プレイヤー仲間から少しずつ演奏法を習っていくことにした。
 それより、糊口を凌がねばならない。だが、アカ狩りのマッカーシー旋風にも匹敵する移民局の不法労働者狩りが日本レストランのドアを叩き、逮捕されると強制送還になるという話を聞いて、アンダーグランドへ深く潜航することにした。弁当配達やメッセンジャー、皿洗いをして最低限度の生活費用を稼ぎ、自由な時間をジャズの練習に打ち込んだ。飛んでいるスズメも焼き鳥になって落ちるという夏も過ぎ、セントラル・パークの紅葉の秋も過ぎ、アパートから一歩も出られないほど大雪の冬を経験し、スプリング ハズ カムとなってあっというまに1年が過ぎ、5年が過ぎ、10年、20年の月日が無常にも迅速に過ぎた。その間、一度も日本へ帰らなかった。というよりこの国から出ると戻ってこれなかった。酒もやらずにアパートの地下のスタジオで一生懸命練習に明け暮れたが、それでもプロへの道は険しかった。素質がなかったといえばそれまでであろう。運が悪かったといえばそれまでであろう。
 それよりジャズをやればやるほど、思想的にカゲキになって、白人社会を嫌悪するようになった。黒人と同等の目でアメリカ社会を見るようになった。それはそれで良いのだが,自分が永住権を取得出来ないのも,ホワイト・ピッグの白人がこの国を握っているからであると避難するようになった。いつしか情緒不安定であると周りの人々が噂するようになり,バイトで働いていた日本レストランのオーナーからは、一度帰国した方がよいと説得されると、望郷の念が次第に募っていった。考えてみたら、この広大な北アメリカ大陸に20年いながら、ほとんどニューヨーク・ジャングルから出たことがなく,その上、独身であった。長く音信が途絶えていたニッポンの両親へ手紙を書いた。病床にあり空港まで出迎えられずと返信が来た。ついに、1992年夏、ニッポンへの帰国を決心した。

あわれチチハハ
 日本では、元号が昭和から平成に変わっていた。故郷への20年ぶりの帰国は,その昔ルバング島のジャングルから生還した元日本兵か浦島太郎の心境であった。広島の田舎に帰ってみると、山の形も違っているし、丘の木も,水田もなくなっていた。蝉もカエルもいなくなっていた。畦道はアスファルトに舗装され、両側は新興住宅地になっていたからだ。何といっても5分の1世紀だからね。
 両手にオミヤゲを持ち、旅行カバンを引きずりながら、見知らぬアーケード街を抜け、さらに記憶をたどりながら山の方にある実家へ向かった。区画整理された風景はまるでアリスの不思議の国へ紛れ込んだようだった。まっすぐに伸びた一本道をてくてくと歩いていった。ダンプカーが猛スピードで駆け抜け,自転車に乗った学校帰りの学生が行き交い、歩道には小さな子供の手を引いた若夫婦が散歩していた。
 遠くの一点より腰の曲がった白髪のオジイさんとオバアさんが杖をつきながら、ヨロヨロと歩いてくるのが視線に入った。次第にその距離が接近した。一瞬、すれ違うとき、眼をまん丸にしてじろじろと眺められ,ハッと思うことがあったが、お互いに会釈程度に軽く頭をさげて通り過ぎた。友だちの家を確認し、やっと実家へたどり着いた。庭にあった大木はなく、家は緑瓦の家に改築され、愛犬ポチの姿もなかった。思いっ切り元気よく玄関の戸を開け「ただいま!」とどなった。すると,さっき道で出会ったオジイさんとオバアさんが、ワーンワーンと大粒の涙を流しながら泣いていた。両親だった。平成版浦島太郎物語りである。
(1994年5月13日付、ニューヨーク情報誌OCSNEWS掲載)