What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

深夜の地下鉄で地獄の恐怖と天国の親切さを味わったボンバー斉藤君のNY滞在記!

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口
 ニューヨークの地下鉄ではすべてが起きる。出産、死亡、芸術、強盗、睡眠、脱線、親切,放尿、接吻,麻薬。世界で最大のアーバン・レイルロードは今日も24時間迷路のような地下を走っている。そして、毎分,上記の現象の一つが起きている。

深夜の地下鉄
 師走は師走も走り、悪も走る。アメリカも日本と同様に犯罪が多走するらしい。フトコロが寒くニュー・イヤーを迎えられないヤカラが、街をまるで「狩りの犬、獲物を追ってどこまでも」のごとく徘徊するからである。
 その事件があったのはクリスマス前だった。正確には十二月二十三日であった。ウェスト・コーストの「リトル・トーキョー」に対してイ−スト・コーストの「リトル・ニッパー」ともいうべき、カラオケ屋やお水屋さんが蝟集するミッドダウンの東四十九丁目通りニ番街の高級クラブで、斉藤君は学費を稼ぐためにバイトをしていた。
 その夜、いつものごとく仕事は午前二時に終わり、二、三十分かかって乗る八番街の五十丁目の地下鉄駅まで歩くのだが、あの事件に遭遇した日は酒を少し飲みメイテイしていたので、歩いて十分もかからない五十一丁目レキシントン駅よりマンハッタン島の根元、ブルータス流に申せばベニスの根元、のアップタウン二百七丁目のアパートへ帰ることにした。だって店の人に連れられて近くの店へ行ったので、、、。ビール5本だったか、いや、もっとだ。大型ジョッキー8杯ぐらい飲んだかも、、、?

午前三時半頃、冬の冷たい北風がビルの谷間を吹き抜けていった。昼間の喧噪とはうってかわって、この時間帯にこの地区ですれちがう人は少なかった。ヨロヨロとレキシントン駅へ辿り着いた。ローカル中のローカルなEトレインが通っていて、ポートオソリティー四十二丁目で乗り換えてAトレインにトランスファーしようとした。夜遅くなので二、三十分待っても電車はこなかった。ホームのベンチでうつらうつらとしていた。
 午前四時頃、やっと電車が来たので倒れ込むように乗った。同車両には遠くの方でホームレスが二、三人寝ていた、と思う?!すっかり泥酔したので確かなことは覚えていなかった。すぐ、ちょっとシートに倒れかかり、足を投げ出しグターとしてしまった。意識は曖昧朦朧としていたが目だけは半分開いていた。
 電車が轟音を鳴らしながら走り出してすぐだった。一緒に乗ったのか、前から乗っていたのか、さだかでなかった。いつのまにか猫のように音もなく「スーウッ」と三人の人影が不気味に近づいてきた。直感でヤバイと思った。その内の真ん中の背の高いヤツが、「Are you Korean or Japanese or Chino?」と傲慢に見くびったデカイ態度で聞いてきた。ブラックの若者たちであった。
 日本のアイデンティティーを失いたくなかったので、正直に「Japanese!」と言ってしまった。次に「Do you have money?」と聞かれた。こういう時、イチバン勇気ある行為は素直に財布さし出すことと知っていながら、何せ、トッサの出来事だったので、島国根性特有の吝嗇(りんしょく)主義と盛田・石原共著「NOと言える日本人」の読みすぎで、オモワズ「No!」と答えてしまった。
そしたらいきなりそのヤツがガンを目の前に突き出した。殺気がみなぎっている。まるで引き金に手をかけ今にも銃弾が硝煙もろとも爆発し、オレのドタマをぶっ飛ばすばかりのパワーだ。バイオレンス・クライムだ。
 「ウォー!」驚愕絶倒恐怖噴飯・泥酔解放意識覚醒。酔いがイッキに蒸発し、顔面蒼白になった。もうショウベンをチビリそうになった。リボルバーの拳銃であった。もうコトバに言いあらわせないくらいの恐ろしさに全身がフルえた。蛇ににらまれたカエルのように身動きできなかった。
 突然、右のヤツにゲンコツで「バーン!」と殴られた。パンチを3発、こめかみや顔面を殴られた。鼻血が「ヴーォ」と吹き出し、鮮血が白いワイシャツを染め、床にも飛び散った。とにかく、ピストルがおっかなくてどうしようもなかった。いきなりのアクションであり、もう硬直した体は動くことができず、殴ったヤツがポケットに手をつっこんできた。ジャケットのポケットに入っていた六十ドル入りのサイフを巻きあげられた。
 まだ鼻血が出ていたので気絶したフリをして、どうにかシートにうずくまり動かなかった。三人の強盗たちは次の停車した駅でズラかった。あいにく車内にポリスはいなかった。出血がひどく意識不明になりそうになったが、ともかく四十二丁目で下車した。
 ジャンパーで鼻を押さえながら、すごく痛かったのでプラットホームのベンチに横になった。そしたらホームレスが二、三人集まってきて、お前、どうしたんだ、どうしたんだと心配そうに聞いてきた。その内の一人がポリスを呼びに行ったらしい。まもなくポリスが来て事情聴取を受け、一部始終を話した。そしたら、このまま病院へ行くか、どうするか、聞かれたが、ちょうど電車がきたのでこれで帰ると言った。

ホームレスと共に
 午前5時頃。Aトレインはすぐに走り出し、ティッシュ、ペーパーで鼻血を拭いていた。するとどこにいたのか知らないけれどオリエンタルのホームレスらしき人が近付いてきた。同じ車両にいてオレを観察していたのであろう、三十五、六才のオバサンで、汚く十年もシャワーを浴びてないようなホームレスとは違い、まだ多少、奇麗な格好でホームレスという程でもなかった。ピンクのセーターを着てズボンをはいていた。白いハンカチを手にもって、英語で「O・K? O・K?」と話しかけてきた。
 それまでは胸がドキドキであったがやっと意識も冷静になり、多少、痛みもやわらいだ。その出されたハンカチで鼻血を拭いて、「Thank you!」と礼を述べた。お互いにこんな街のこんな時間に、同系民族の感傷か、隣国人の友愛か、親しげな雰囲気となった。
 こんな所で何をやっているのかと聞いたら、「Homeless」と英語で言った。あまりその人は英語が出来なかったが、たどたどしい会話で分かったことは、昔、ニューヨークのコリアン・レストランでウェイトレスをしていたが、やめてホームレスになっている、という。びっくりした。オリエンタルのオンナのホームレスは初めて見た。
 これから今夜はどうするのかと聞いたら、毎晩、夜は一晩中起きて、昼間寝る、と言った。夜は怖いから、昼間寝ているのだ。それなら、良かったら自分のアパートヘ来てシャワーを浴びるなり、友達へ電話するなりしなよ、と言った。そしたら「I am crazy, I am crazy!」と繰り返した。そんなに気がフレているようには見えなかったが、とにかく、最初オレが男だから怖くてクレージーといったのかと思ったが否、そうではないらしい。結局、電車を降りたら一緒に付いてきた。ルーム・メイトにカクカクシカジカでコリアンのホームレスを連れてきたので中へ入れていいかと尋ねた。そんなのダメだよ、と言われ、とにかく、金が盗まれて一セントもないのでルーム・メイトから二十ドルを借りた。
 そのホームレスにルーム・メイトがダメと言っているからシャワーを浴びさせてあげることは出来ないと謝った。その代わり近くに二十四時間営業のレストランがあるので腹が減っていればおごってやる、と言った。ノーといったがそのホームレスにコーヒーとサンドイッチを注文してやった。やはりお腹が空いていたみたいであった。遠慮していたのだ。夜は明け、日が昇ってきた。
 午前七時頃。駅まで送ってあげて、最後の持ち金が十二ドルあったので十ドルだけあげて、帰りなよ、と言った。そしたら何回もオジギをして、はっきりした声で「Thank you, thank you very much!」と涙を流して喜んだ。その夜は二年半のニューヨーク生活以来初めての、人生でも二度とないような大体験を二回もした。
(1993年11月12日付、ニューヨーク情報誌OCSNEWS掲載)