What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

紐育にあった日本人経営の “ホア・ハウス” のトリック、あるいは、日本人の “パツキン神話” について!

文・ニッパ―中山
イラスト・シュン山口
「オランダ人が1626年にインディアンからマンハッタン島を買い取ると同時に、コマーシャライズの売春宿が出来た。」ニューヨーク市の歴史より
 正確には1970年の紐育であった。海外旅行が自由化されてから6年目。JALがサンフランシスコ経由のニューヨーク線を運航してから4年目。やっとアメリカでトヨタ車やホンダ車が買われ、ソニーナイコンがブランドとなり、日本経済が力をつけ始めた時代であった。
 当市の邦人人口もわずか5、6千人程度であった。一方で柔道三段の駐在員がピストルで殺され、改めてこの街の怖さが日本へ伝わった。マンハッタンの日本食料店はアップタウンのアムステルダム街の田中屋とミッドタウンの片桐商会しかなかった。日系のトラベル・エージェンシーもわずか宮崎商会と大陸商事の2社ほどで、両社併せても正社員15名、バイトのガイドをたしても総数約40名程度であった。当時、日本から紐育までの飛行機代は往復28万円(約$800)、固定相場360円の時代だったから、大変な額である。大卒の手取り月給が4万円であったので半年分に相当した。だから滞在者は少数の裕福な観光客か、商社か銀行に勤務する独身のエリートか、あとは、ドル稼ぎを目的に超貧乏な世界一周旅行途上の若い旅人ぐらいであった。前者はミッドタウンの三つ星ホテルへ投宿し、中者は安全なアッパーウエスト・サイドに住んで2、3年で帰国した。後者は治安の悪いミッドタウンのウエスト・サイドで月部屋代50ドル程度のペンション・ホテルに仲間と雑魚寝居住し、主に、ジャパレスを2〜3軒掛持ちで働きながら、1年滞在して目標$5,000を溜め、数年間、あるいは、永年に南米のそれも美人の産地といわれてCの付くコロンビア、コスタリカ、チリあたりでのんびりとメイドさんを3人ぐらいつけて暮らすのが目的であった。前者は人生一度でいいから金髪とお手をあわしたいため、中者、後者は独身生活の無聊を慰めるため、当地の日本人の風俗ナイト・スポットは、皆、共通していた。いや、共同であった。
 それより前の60年代時代に、この国で、いわゆるピューリターン的倫理に対して、“ノー” とつきつけるラディカルな性革命が澎湃し、人々の意識や社会を変革する巨大なムーブメントとなった。1953年にヘアヌード雑誌「プレイボーイ」が発刊され、1968年にはそのモノずばりを意味するセックス週刊誌「スクリュー」が発行され、未曽有の「ポルノ解禁」の波が大都市を席巻し、この国の性タブーが取りはらわれて巷のセックス産業やポルノ文化が大繁盛した。1969年に42丁目で公開された性器丸出しスウェ−デン映画「わたしは知りたいの」に一週間で4万人の観客がつめかけた。そのころ、ブルシット道の本邦はかたくなに鎖国2百年の伝統を守り雑誌や映像に陰部はもちろんのこと陰毛一本でもはみでていれば即税関で没収するという頑固頑迷な姿勢をくずさず、逆に海外旅行オミヤゲの99%までが腹巻きやトランクの底に隠し持って帰る外国製ポルノ雑誌かブルーフィルムと決まっていた。だから、それらは金やダイヤモンドよりも、もっと、もっと、価値のある貴重品であった。なかでもタイムズ・スクエアといえばそのエロス性と犯罪性において世界的に知れ渡り、悪徳の渦巻くメッカであり、リビドーの解放区である。
今も昔もジャパレスや日本人用のクラブやバーは国連に近い40丁目代50丁目代イースト・サイドに集中して、当時、「神戸」と「心と心」のたった2店しかなかった。そして現在はもう消滅したが、カラオケがなかった当時、そこには必ずグランド・ピアノが置いてあり、通称「ピアノ・バー」と呼ばれていた。大和撫子のホステスにまじってガイジン・ホステスも刺身のツマ程度にまじっていた。GIと結婚したような戦争花嫁出身のママが店をきりまわし、日本語が堪能なロシア人のオバちゃんがピアノを弾き、お客のリクエストに答えて軍歌から演歌から民謡まで伴奏をつけてくれた。彼らはマイクで歌うことで故国への郷愁にかられて、明日の人生と今夜のラッキーに乾杯した。そんな不夜城「ニューヨーク・ネバー・スリープス」のナイト・ライフの始まりであった。
 ここからが、この街の今風の呼び名ならツア・コンさんの腕のみせどころであるというか最大の収入源であった。まず、観光客にとって、エンパイヤーや自由の女神巡りよりも、何といっても本命はパツキン娘との遊びで、それは、ウタマロ伝説国の男粋であり、村人や町内会の人々への最高のミヤゲ話であった。それは夜の「スペシャル・コース」と呼ばれ、本物の”金髪“と、いや、気取って”パツキン“と一戦できるので有名であった。ところで、料金は、実質、在邦人に対しては35円(当時1ドルのことを1円と呼んでいた)のところ、ガイドは客から100円、すなわち、100ドルを徴収した。それもそのはず、祖国では外人女性がまず不可能であり、その上、「パツキン」とくれば富士山より高い雲上の存在であった。だから、この機会を逃したら一生悔いを残すのは明らかだ。よってガイドさんは神様のように慕われて感謝感激され、その上、一人に付き65円の余禄がはいり笑いが止まらなかった。ピアノ・バーでホロ酔となり、防弾ガラス張りのリムジンのシートへ腰を深くおろし、XXXポルノ映画館、XXXアダルト・ブック・ストアー、ライブ・ヌード・ショー、マッサージ・パーラー、モデル・スタジオ、安酒場、安ホテル、不潔なレストランなどの妖しい看板とネオンと光の洪水となっているタイムズ・スケアをクルージングしながら、ポルノ・ショップで急停車し、道祖神級の巨大なプラスティック製のディルドーやバイブやポルノ雑誌を買い漁りながら、車はさらに北上しアップタウンへと進むのであった。とある54丁目の8番街と9番街の間にある15階立ての高級マンション前で停止した。慣れたガイドのお兄さんはチップのドル札を握りしめ慇懃な黒人ドアーマンに渡すと通してくれた。エレベーターで上階へのぼり、ある部屋をノックするとマジック・ミラーでチェックされ、厚いドアーが開いた。ここは日本人経営による日本人の為の日本語による唯一の万事秘密裏でやっているパツキン専門の、英語で申せば「ホアハウス」とか「プラストチュート・ハウス」とか、あるいは「パツイチ・ルーム」とか「NY吉原」とか「女郎屋」とか、ずばり、「◯◯◯◯屋」とも呼んでいた。太った白人のマダムが顔面に笑みを浮かべ「ス・ケ・ベ・ボーイ、ドウゾー!」と流暢な日本語で歓迎の意を表し、ガイドはそっと袖下から現金35円を渡した。壁には日本の週刊誌に紹介されたこの店の記事が自慢げに貼られていた。ステレオからはBGMのディスコ・ミュージックが陽気に流れ、妖しいピンクのライトが交叉する待合い室のリビングルーム鏡の間をかこんで20人程の、すでに女とギャンブルにかけてはタリバンのように獰猛な日本の若い旅人たちと、商売にかけてはエコノミック・アニマルな駐在員と、金には糸目を付けずの観光客で満員御礼の垂幕がさがるほど立錐の余地なく混雑していた。やがて、暗さに慣れるに従って、こんなところでブルータスお前もかのごとく紐育の知人や友達や同胞と会ったことで、ホットとするやらバツが悪いやら妙な気分となった。場所が場所ですからね、、、、。トホホですネ。お酒のグラスとグラスがぶつかりあい、洋モクと和モクの紫煙が程よくブレンドされ、さらに、妖しい香水とがミックスされ、期待と希望に胸を膨らませたお客さんたちはこれから始まる秘め事に花を咲かせていた。ある人は小チェリーが好きだとか、ある人はビッグブーブーが好きだとか、ある人はデルタがどうのビーバーがどうのと、ともかく、今夜の相方の品評で侃侃諤諤にモリあがっていた。すると、突然、ライトが消えシーンとなった。スワッと気の早い連中はNYPDのCracking down(ガサ入れ)かと焦ったのですが、違うのでありました。本番前のウォーミング・アップです。その手の、人間が生まれて3万5千年かそこらのあいだダーウィンに反して進化もなく、内容自体、ま〜あ、単調行為でばかばかしいものなのですが、何しろ日本では非常に珍しいスッポンポンの外人モノでありますから、皆、目をさらのようにして、そのブルーフィルム観賞会へ臨んだ。皆様、ブルーといっても青色の映画ではありません。現在では死語になってしまいましたがその昔はポルノ映画のことでした。小さな8mm 映写機のモーターが廻り、壁へ映像が写し出され、生まれたままの姿のパツキン娘が「Come on !」と叫びながらエッチの場面が延々と続く総天然色の洋ピンものであった。もう、これだけで全員が鼻血ブーの状態で、再び、ライトがともった。すると、大きな驚嘆が漏れた。それもそのはず、生まれて初めて本物のパツキン女神が目の前へ現れたのです。一段高いステージ前にはその目も艶やかなマリリン・モンローのようなセクシーな女性たちが薄物のシースルーのドレスやネグリジェを着て、摩天楼の谷間の胸をのぞかせて、豊満な乳房を露出させ、エンパイヤーより高くそそり立つようなヒップのお尻にはほんの申し訳程度の小さい布切れが巻かれていた。合コンが始まったのです。貴婦人方が扇子を片手であおぎながらコケテッシュに座ったり立ったり、手鏡をかざして金色の髪を整えたり、彼女たちは全員にくまなくセクシーなウインクをデリバリーしながら、透き通るようなホワイト・ボディーを遺漏なく披露した。もう、その場に居合わせたニッパーの誰もがまるで麻薬に毒されたごとく、精霊にとり憑かれたごとく、生ツバをゴクゴクと飲みながら、官能的な誘惑の鎖を断ち切ることは不可能であった。はやくも爆発寸前に情慾をもよおした輩は今にもカミカゼ特攻隊の精神を持って、我れ先にと突撃しかねない趨勢であった。そこは百戦錬磨・手練手官のマダム。目と目とが合った同士から順番に奥の快楽の花園へいくように優しく促したのだ。「ネッキスト、キュート・チャリー、カモン!」とかいわれながら、ゲットした彼女の手と手をとりあい、喜び勇んで奥の寝室へ消えていった。そして、ものの一分も経過しないうちに、スッキリした顔の一人がかえってきて、また、ものの一分も経過しないうちに、コッキリした顔のもう一人が帰ってきて、また、ものの一分も経過しないうちに、ポッキリした顔の誰かが帰ってきた。ともかく、つかの間のベット・インであったが夢を実現したのだ。皆、しごく満足げで感慨無量となり一生涯のBrother in Love(マラ友達)となった。(爆笑)
ところで、これは絶対内緒ですよ!小さな声でいいますが、御婦人がたのパスポートを覗くと全員が南米出身の縮れ毛や黒髪の出稼ぎ女性たちであった。日本人にとってガイジンの女性はすべからくピュアーな白人に見えてしまい、本物のパツキンであるというアプリオリな態度でもって疑う余地などまったくなかった。彼女たちは個室でのひと仕事を終わるや否やすばやくトイレの鏡の前へ座り、今迄の長い金髪のウィッグからボブ調の短い金髪ウィッグへ、あるいはマリリン・モンロー風からキム・ノバック風へと、素早く頭のウィッグを交換し、メークを変え、服を変え、そして、そしらぬ顔をして、また、前へあらわれるのであった。パツイチのチャンスがまだ廻ってこない輩は固唾をのみながらじっと鶴首していたが、違う美女の出現に腰を抜かし、なんて沢山のパツキンがいるのだろうと目をパチクリさせた。ところが実際は娼婦4人だけで要するに手を変え品を変えて、他人になりすまして出てくるだけであったのだ。そのトリックを知るほどウィッグがまだ日本の一般社会に浸透してなく、知るよしもなかった。
 こうして娼婦たちは役者そこのけで次々と違うウィッグで新しい人格になりすまし、日本人の心を裏切ることはなく、カツラを介しての椿事であった。
 今や日本中が茶パツや金髪だらけであるが、人生一回でいいから死ぬ前に一発“外人パツキン”と一期一会一したいという、何と大時代的なロマンというかファンタジーというかブロンド・エキゾチズムが実存していたことか。今では、コッケイに思えるが当時の日本人男性に横たわっていた深層心理であった。
 ところで、その売春宿はめちゃくちゃに儲かったが、地元のその筋のマフィアが聞き及ぶところとなり、死より生を選んだ経営者は閉鎖をよぎなくされた。こうして日本人の性欲とその充足をめぐって、あるいは、日本人の品格とその誠実さをめぐっても、今もヤフーの「フウゾク」をサーフィンしていたら、「パツキン」コーナーに遭遇した。どうやら、”パツキン“と”長島さん“は永遠に不滅であるらしい。ニッパーの国では、、、、。
(2001年12月08日)