What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

死体をまたいで御出勤したニッパー!

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口
1969年、NYCのロアー・イーストサイド ”アルファベット・ランド” の ”クレージー・ホット・サマー” について!
「We all come from somewhere, usually somewhere else.」―ニューヨーカーの格言
 Freaky(フリッキー/気狂な)時代のFreaked out(フリッキッド・アウト/気が狂った)場所であった。この国のあらゆる政治的社会的文化的な大変革がおきた。なかでも「セックス・ドラック・ロックンロール」を合言葉にカウンターカルチャーの嵐となった。これらの運動の激震地の一つがNYのEast Village(イースト・ビレッジ)であった。もう一つはFriscoのヘイト・アシュベリーである。今より30年前のレイト・シックスティーズからアーリー・セブンティーズにかけてアベニューBに住んでいたフランク中村氏に当時の凄まじい体験を語ってもらった。
1967年、アマチュアレスリングの日本代表選手として全米選手権出場のため渡米した。チームはすぐ帰国したが、ニューヨークに先輩が居りその人を頼ってきたわけです。当時、観光ビザの入国で1年の滞在が出来、さらに、1年の延長が可能であった。1ドルが360円の時代。日本からの外貨ドル持ち出し額は最高500ドルまで。たったの日本円で18万円、在米邦人は1ドルを1円とよんでいたので、わずか500円です。69年に知り合ったアメリカ人GFがイーストビレッジのアベニューB&6ストリートに住んでいたので私も転がり込んできた。月のレントが59ドル95セント。まだ、市の物価や家賃も安く、なかでも、とりわけこの地区はレントコントロール法で特別に安かった。それ以上に最も安かったのが命だった。今考えると随分と危険な目にもあったが、結局、10年も住んでしまった。最近は深夜でもニッパーのオネイチャン一人でもアルファベット・シティーを歩けるらしいが、あの頃はまず考えも及ばなかった。チョーベリバの貧民街(ゲットー)で、凄ざましく治安が悪かったのです。犯罪は日常茶飯事。間違い無くここはニューヨークの俗称 “Helluva town”(ヘルヴァ・タウン/どえらい街)のチャンピオン格だった。だから「ニューヨークのバクダット」とか「ニューヨークのワイルド・ウエスト」とか呼ばれていた。この地区は人種構成は7、8人の大家族から成るプエルトリカンが大多数を占め、あとは少数のウクライナ人、ポーランド人、黒人、白人のヒッピーの若者たちぐらいであった。職業も大方が最低賃金の時給3ドル25セントのブルーカラーかアーティストか無職であった。ニッパーもほんの少しだが5〜6人程度いた。世界一周の最後に辿り着いたヒッピーの旅人とか、チョー貧乏の前衛アーティストとか、現地人と結婚した人ぐらいであった。
地理上でマンハッタンのロアー・イーストサイド地域にアルファベットのA、B、Cの付いた通りがある。北は14丁目から南はイースト・ハウストンまで、西はアベニューAから東のイースト・リーバーのFDRまでを指す。さしずめイースト・ビレッジの奥座敷である。 
史書によれば、この地域は、1880年から1914年の間、東ヨーロッパ出身のユダヤ人移民200万人が押し寄せてきた。市当局はこれらの移民を収容するために、急ごしらえの5、6階建て賃貸ビルを急造した。いわゆる、バスとキッチンが一緒の部屋にあり、窓が少なく風通しが悪いレイルロード・フラット形式である。一方、カリブ海の小島のプエルトリコは1898年からアメリカの支配下におかれ、1901年に領土が合弁された。第二次世界大戦後、アメリカの歴史上で初めて飛行機でやってきた移民である。島の人口350万のうち100万人がニューヨークへ渡り、その一つの主な居住地がロアー・イーストサイドである。他はイースト・ハーレムサース・ブロンクスであった。アベニューDの巨大な12階建てハウジング・プロジェクト群(市営低所得者向けアパート)は社会改革者の「ヤコブ・リス&リリアン・ワルド」の名前がつけられ、プエルトリカン移民を収容するため1940年代から50年代に建設された。ここは「アルファベット・ランド」と呼ばれ、プエルトリカン住民のあいだではスペイン語で ”Loisaida”という。80年代にアメリカの経済景気がよくなり、ヤッピーと呼ばれる新興若者成金階級が出現し、ジェントリフィケーションの波が最初に侵入してきたのが、この地区である。地元の政治家と不動産屋が結託してボロ・ビルやボロ・アパートを改造して高級分譲コンドミニアムとして売りつけるため、昔ながらの名前ではプァーなイメージなので、新しく「アルファベット・シティ」と付けたまでである。つまり、不動産屋によって捏造されたネーミングである。
当時、アパートの窓を開ければ、未曽有の悪徳なエネルギーがこの街で渦を巻いていた。一口で言えば ”War Zone”であった。今でこそ、前々市長コッチの「アイ・ラブ・NY」キャンペーンや前市長ディンキンの「ゴージャス・モザイク」スローガンや現市長のジュリアーニの「クォリティ−・オブ・ライフ」運動を通過して、すっかり治安もよくなり街はフィフス・アベニュー化の一途をたどってファッショナブルなお店もいっぱい出来た。だが、たった30年前まで、ここはニューヨークでも指折りの中の悪の巣窟であった。大手を振ってギャング、強盗、麻薬ディラーが24時間年中無休で正々堂々と徘徊し、深夜、突然、カンシャク玉が破裂したような「パーン!パーン!」というピストルの音をよくきいた。通りはいずこも紙屑が舞い、そこら中悪臭が漂い、小便の水溜まりができ、そこら中に犬や人間のシットがころがり落ちていた。軒並み放棄された廃虚ビルが、ベトナム戦争の爆撃跡のような姿で放置されていた。市へ不動産税金を払いたくない家主がわざと保険金目当てに自らビルへ放火したのだ。360日間、絶えずパトカー、救急車、消防車が高いサイレンを鳴らして走り廻り、路上には壊れた傘のようにドアとタイヤとエンジン部分を盗まれた盗難車の残骸が無数に野放しにされていた。なかでも、ヤクに関してはニューヨークはおろかイースト・コースト中のジャンキーが買い出しに来ると言われるほど、年中無休の路上ドラッグ・マーケットがアベニューCで開かれ、あらゆるヤクが公然と売買されていた。ヘロイン、コーク、ハッシシ、サンシャイン、メスカリン、グラスetc。そのうえ、サタディー・ナイト・スペシャルと呼ばれる強力な22口径ピストルまで売られていた。
 1969年の盛夏は特に一生涯忘れぬ “クレージー・ホット・サマー”であった。アップ・ステートで40万人を集めた大ロック・フェスティバル “ウッドストック”が催され、グリニッチ・ビレッジではゲイ解放運動の発火点となった “ストンウォール”事件が起き、“アルファベット・ランド”ではプエルトリカンのライエット(暴動)がおきた。昔は気の狂うくらいニューヨークの夏は暑く、Heat Waveが来ると死ぬおもいだった。8月であった。飛んでいるスズメも焼き鳥となって落ち、ストリートのアスファルトへ生タマゴを落とせば目玉焼きになるくらいの猛暑猛日が連日連夜続いていた。金持ちは逸早く海の軽井沢と言われているロング・アイランドのイースト・ハンプトンかアップ・ステートの別荘へ逃避した。そして、貧乏人だけが取り残された。その日の夕方も、異常な無風状態で100度F以上(約40度C)近くまで登り詰めていた。日中の太陽熱でコンクリートの室内は耐え難いほどの高温となり、灼熱地獄化した。すべての人々を屋外へと追い出した。どのアパートからも陽気で猥雑でテンポの早いサルサの音だけが巨大なスピーカーを通して流れていた。扇風機をいくら廻しても体の火照りは一向に緩和されなかった。クーラーのない、我々、貧民街のゲットーの住民は精神不安定となり、発狂寸前の苛立ちとなった。やがて、ラテン民族特有のアナキーで狂気的でカーニバルレスクなエネルギーが爆発した。褐色のカリブ海の始源の魂が革命性を帯びて街角に解き放されたのだ。やがて市街戦さながらのライエットへと、集団無意識的に発展していった。いつのまにか、アベニューCの6ストリートと7ストリートのワン・ブロックの両サイドはガベージ缶や車の残骸ではるかに人の背より高いバリケードが若者や子供らの住民によって構築され、外部からは完全に遮断された。やがて内部からインディアンの狼煙のごとく白い煙りが高く大空へのぼりはじめた。自動車修理工場の古いタイヤへ放火したのだ。あたかも、これを合図のごとく興奮した3〜4千人のヤング・プエルトリカンの群集は真先にユダヤ人経営の質屋やデリのガラスを壊して襲撃した。続いて、ポーランド人の電器屋や酒屋、イタリア人の八百屋、タバコ屋や衣料品店やスーパーマーケットが襲われた。日頃の人種的経済的なルサンチマンをはらすがごとく、飢えたイナゴの大群となって略奪行為へと狩り立たされたのだ。酒瓶が、衣料品が、トイレットペーパーが、超高級なカラー・テレビが踊躍歓喜した人々によって持ち去られた。そして、その横で、あらゆる盗難品が堂々と売り買いされていた。親たちはセルベサを飲みながら鼻をまっ赤にし、子供たちへ、もっと何回でも略奪へ行って家計を助けるようにと励まして、また、送り返した。深夜になっても、一向に暴動は収まらず、火はますます燃えあがり、消防車はバリケードに阻まれて現場へ辿り付けず、手をこまねいて断念し、やがて引き返した。すると、べトナム戦争のニュースで見たような、NYPD(ニューヨーク市警)所属のヘリコプターが低空で轟音をとどろかせながらアルファベット・ランド上空を旋回し、投光照明機で真昼のようにビルの屋上やストリートの隅々まで照らしはじめた。そして、いずことなく防弾ヘルメットにライフル銃姿で暴動用の重装備した数百人の精鋭TPE(タクティカル・パトロール・フォース)部隊がブーツの音を高く鳴らしながら厳格な列をなしてバリケードを撤去しにやってきた。武力でもって鎮圧へ乗り出しに来たのだ。ピッグ(ポリ公)!豚(ポリ公)!と罵倒を叫びながら数人の子供たちが逃げ場を失って逃げまとい、石ころに躓き、紅に染まって倒れた。大人が救助に駆付けて運び去った。あっという間に、人っ子一人がストリートより姿を消した。一斉にビルのアパート内へ退避したのだ。住民は部屋の電気を消し、各窓を開け、息をこらして外の路上の警官の動きをうかがっているのだ。一瞬、あたり一面が重苦しい沈黙の闇夜となった。やがて警官をめがけた一投の空瓶を契機に、再び、破られた。ヤンキースの祝賀パレードの紙吹雪のように、あらゆる窓や屋上から無数の、瓶、缶詰、レンガ、ごみ屑等が乱暴に投下され、ストリートのアスファルトへ当って砕け散った。その音はニューヨーク中のビルの谷間へこだました。生命の危険を探知した警官たちは素早く身体をぴったりとビルの壁づたいに避難しながら、闇夜のなかでライフルに手をかけて応戦の構えをした。一触即発の緊張感が高度に高まった。やがて、イースト・リーバーの辺りから日が登り始めた。次第に明るくなると、あらゆるゴミの残骸が道路をおおい、そこら中に、赤い血の痕跡を残していた。結局、この暴動は3日間も続いた。
 ある日本人アーティストの奥さんはこの夜遅く仕事からアベニューCの自宅へ近づいたら警察の立ち入り禁止のサインがあって家まで辿りつけなかった。留守中の主人へ電話をかけても危険だから帰ってくるなと言われた。しょうがないので鎮圧されるまで3日間もアップタウンの友人宅で待機していた。
この事件は新聞に小さくしか出なかった。もっと大きなベトナム戦争などがあったからだ。
 イースト・ビレッジとこの地区は今も昔も警察は第9分署区域管轄である。当時、この署だけで年間、平均8千件の犯罪が記録されていた。誰でもが1回以上の泥棒や強盗の被害を受けていた。まるでゲットーのタックスのようなものだった。アパートのビルの入口に一つの鍵があり、自分の部屋には頑丈な鍵を3種類もつけ、あらゆる窓には重たい鉄製ゲートをつけて要塞のようにした。それでも、室内へ強盗が入ってきた。泥棒猫のようなので「キャット」と呼ばれていた。私も1回目に現金とカメラが盗まれ、2回目に電気釜と自転車が盗まれ、3回目に食料品が盗まれ、もう、盗まれる物は何もなくなり空っぽになってしまった。隣室のプエルトリカン家族も、最初にテレビが盗まれ、2回目に聖書の下に置いといた現金が盗まれた。ポーランド人の老夫婦も白人のヒッピーの若者も、全住民が何らかのかたちで泥棒や殺人、強盗や窃盗の被害を被っていた。犯人たちは学校をドロップ・アウトしたプエルトリカンの悪ガキたちである。数人がグループとなって、ビルの出入りを監視し、住民の外出時を狙って、そのスキに人目に付かないビル裏のファイア−エスケープの階段から窓のゲートを壊して侵入してくるのだ。ある日、窓を開けたら偶然に侵入する寸前の泥棒と遭遇した。即座に警察へ通報してポリスが来たが保険にはいっているか、で終わってしまった。
こんなクレージーな暑さも終わりかけ早秋がきた。やっと朝夕はいくぶん涼しくなりはじめた。その日、夜の帳はまだあけず町は深い眠りについていた。いつものごとく、ロング・アイランドの会社へ出掛けるので早朝にアパートの部屋を出た。ドアを開けて一歩廊下へ足を踏み出すなり廊下に白人の若者の死体がころがっていた。ヤク絡みのトラブルに巻き込まれて逃げてきたのであろう。死んだばかりのようだ。血が白シャツから吹き出て、リノリュームの床へまるでハドソン河のごとく大量にたれ流れていた。まだ警察がくる前で、アパートの住民もまだ誰も知らない様子だ。こちらは早く行かないと遅刻しそうなので仏様には申し訳ないがまたいで出かけた。今考えると、まことに、狂った “クレージー・ホット・サマー”時代であった。Dig it!
(1990年8月8日)