What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

トージョー・ヤマモトさんのトール・テール!

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口
 95年10月24日付「ザ・ニューヨーク・タイムズ」紙の地元ニュース「メトロ」版に「マンハッタンのハーレムでドミニカ・リパブリック移民の父親を憎悪していた高校生の娘は銀行を信用しない父親が現金2万ドル以上を家に隠し持っているのを知り、父親が不在中にボーイフレンドを教唆して母親と弟を殺害させ現金を略奪したがNYPD(ニューヨーク市警)に逮捕された」とある。
 なぜ、銀行を信用しないのか?この記事を読んで、覿面(てきめん)に、トージョー・ヤマモトさんのことを思い出した。戦後のアメリカ・プロレス界で,グレート東郷など多くの日系レスラーが輩出した。ヤマモトさんもその一人である。本名ハロルド・ワタナベ。ハワイ生まれの日系二世。英語はもちろん日本語もパーフェクトなバイリガルであった。でも精神はピュアーなジャパニーズで母国を深く敬愛していた。戦後にアメリカ軍の MP(憲兵)として日本へ駐留。退役後、尊敬する祖国の偉大なる軍人の姓を名乗りプロレスラーになろうと決心した。その上、体格といい、風貌といい、この商売にうってつけであった。こうしてトージョー・ヤマモト(東条山本)さんは、その名のごとく、第二次世界大戦の日本帝国軍大将である東条英機のトージョーと山本五十六元帥のヤマモトの姓を遺族の了解なく勝手につなぎ合わせて僭称し、戦後60年代アメリカのマット界へ颯爽とデビューした。悪役用に旧日本軍の帽子をかぶり、ゲタをはき、ライジング・サンの旗を振りながら、この国のプロレスの中でもっとも荒く、この国の中でもっとも人種差別(レイシャル・ディスクリミネーション)の激しい、ハードコア・レッド・ネックの地ミッド・サウスのテネシー州を中心に90年代初めまで、約30年にわたり大活躍した。観衆は名前を聞いただけで民族的な憎悪(ヘイト)の念を起こし、リングへ立っただけで USAパトリオット愛国心が発火した。スキンヘッドに邪眼(イーブル・アイ)な細い目で、小柄ながら時に狂暴な空手や柔道技を使い、あるいはゲタで狡猾にアメリカ人レスラーを流血させ、観衆へただちに「リメンバー・パールハーバー!」の敵愾心をもよおさせた。小生が会ったのは1989年2月のナシュビルである。その時は日本人タッグ・チーム “ライジング・サン(ショーグン・マサムネ&ササザキ=当時、新日本所属の橋本真也笹崎伸司)のマネジャーをしていた。その時、本人からいろいろなトール・テール(逸話)を聞いた。トージョーさんも銀行が嫌いであった、と聞いた。というより、戦争中、多くのジャパニーズ・アメリカンはアメリカ政府より敵国人として、いつ財産などを没収されるのではないかという恐怖心を抱いていた。そんなのでトージョーさんもこの国や銀行を、全然、信用していなかった。プロレスではいつのまにか全米でトップ級の悪者となった。それはそうですよね?この名前ですからね。やがて各地のプロモーターからひっぱりだこになり、当時は試合のつど、ギャラを現金でもらうのが習わしであった。トージョーさんは、一度、オン・ザ・ロード(遠征)へ出るとテネシー州アラバマ州ケンタッキー州を巡業してきて2〜3ケ月は家へ帰ってこれなかった。ある日、当時では最高級のキャデラックに乗り、厚い現金札束を持ってやっと家へもどってきた。夜も遅いし疲れていたので現金は明日取り出そうと車のトランクへ置きぱなしにして道路へ駐車しておいた。次の日、起きると車が盗まれていた。もちろん、当然、現金もなくなっていた。深く反省した。また、ロードへ出て大金を持って家へ帰ってきた。もう二度と同じ間違えを繰り返さないよう十分用心した。今度は大きな庭の木の下へ穴を堀り、空きカンの中へ現金を入れて埋めておいた。こうすれば泥棒がきても絶対にわからないから大丈夫だ。安堵の胸をなでおろした。そして、また、ロードへでかけた。すると留守のあいだ、この地方へ10年に一回来るかこないかという超大型のハリケーンがきて、大洪水に見舞われてしまった。もとより、近所もトージョーさんの家も水浸しになってしまった。そんなので、水は川となって空きカンともどもミシシッピー河へ流されてしまった。自然の脅威に改めて打ちのめされ、また、無一文になってしまった。再び、ロードへ出た。今度は家のなかのジュウタンの下へお金を隠しておいた。そして帰宅すると、また、無くなっていた。おかしいなと首をかしげた。そう言えば、掃除のオバサンに部屋の大掃除を頼んでおいた。オバサンは脇見をしながら「テネシー・ワルツ」でも口ずさんで電気掃除機でお金を吸い込でしまったのであった。
 そんなにユニークで面白いトール・テール(ほら)の持ち主のトージョー・ヤマモトさんであったが、人生に疲れたのか、1992年2月19日、ナッシュビルの自宅で護身用25口径ピストルで自殺(スーサイド)をとげ自害した。享年65才独身。地元の新聞は言うに及ばず、TVまで伝説(レジェント)レスラー死を大々的に報道した。家に猫が一匹残されていた。
(合掌)
(1996年10月1日)