What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

ニューヨーク滞在4年、25才、学生S君の地下鉄 "A" 線スリ被害記!

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口
 ハーレムのアポロ・シアターやコットン・クラブが盛況したニューヨーク1940年代。当時、ジャズのデューク・エリントンによって歌われた有名な曲に「Take The "A" Train」があった。ジャズ・ファンでなくても、広く人口に膾炙したので、皆様も御存じとおもう。
 「Take your babay subway riden . That's where romance may be hidin. If you miss the "A" train You'll find you've missed the quickest way to Harlem. 」
 だが、そんな面影は、現在、微塵もない。隠れているのは悪い輩だけである。
 ニューヨークの96年1月15日付日刊「Daily News」紙によると、新しいジュリアニー市長は胸を張って95年度のニューヨーク市の犯罪率は94年度と比較して約17%も減少した、と発表した。その内訳は殺人罪(ホミサイド)が1,582件から1,182件に減少、婦女暴行(レイプ)が2,371件から1,182件の減少、強盗(ラバリー)が72,550件から59,721件。暴行傷害罪(アサルト)が39,773件から35,526件。自動車泥棒(オート・シェフト)が94,523件から71,803件等であり、総犯罪件数376,641件から311,641件に減った、とある。当市は5年前に過去10年間で最高の犯罪率を誇ったが、以後、減少の一途をたどっている。それでも、世界の文明化された大都市のなかで、この犯罪率は異常だ。NYPD(ニューヨーク市警)は警官が約38,000人。年間予算US$2ビリオンを投入してもこの有様である。「犯罪都市」と呼ばれるゆえんである。
 そこで数回、強盗と暴行に遭遇した日本人学生がいた。その生々しい被害談を聞いてみた。まさに生き馬の目を抜くニューヨークである。「クリミナル・ネバー・スリープス」の N.Y.である。
 これ迄に、数回、盗難や暴行をうけた。1回目は、まだ、ニューヨークへきて間もなくで、右も左も分からず、きょろきょろしながら地下鉄へ乗ったら、白昼に車内でサイフをスラれた。2度目は1992年ロス暴動の直後で、マンハッタン北端のインウッド地区180丁目のアパートの近くで、夜遅く10ブロック離れた友達のアパートより帰るとき、市営公園が近道なので横断しようと入った。コンクリートの歩道は木々に覆われて暗く、街灯の光はわずかしかなかった。突然、木の陰から黒人3、4人が飛び出してきて囲まれた。コリアンと間違われて、袋打きにあった。多勢に無勢で何の手出しも出来ず、顔だけしっかりガードしたが脇腹と足にキックやパンチを入れられた。家でタオルで湿布して寝たら、翌日、治っていた。この地区はブロックごとにブラック、ヒスパニック、ホワイトと分かれ、典型的なニューヨークのサラダ・ボールの縮図である。だからヘイト・クライムの生贄として血祭りに上げられたのだ。3回目は深夜のバイトの帰りで、やはり、アパートの近くへさしかかったら、背後より、いきなり、黒人だかスパニッシュだかわからないが、その種のやつが手で首を絞めてきて、金を出せと襲ってきた。中学のとき、柔道をしていたので、自然と背中を丸めて背負い投げの要領で投げ飛ばしたら、すっとんで逃げていった。
 4回目が今回の事件である。その日、1月7日の大雪で、まだ、ストリートには雪が残っていた。その夜、リンカーン・センターへ古いポーランドの映画を友達と見にいった。映画は10時頃に終わり、お茶でもとグリーンのネオンサイン「アイリッシュ・バー」が目についた。カウンターは鼻を赤くした常連のオジさんたちで占められ、我々はテーブルへ座った。彼女はビール一杯だけ飲んだ。オレはちょうどこの前、アイリシュの有名な作家ジェームス・ジョイス「ダブリンの人々」を読んだばかりだったので、その話をしてお互いにモリ上がり、結局、ビールを4〜5杯とアイリシュ・ウィスキー「ジェームソン」をロックで4〜5杯飲んだ。痛飲までセーブしたので自分ではそれほど酔っていない、と思った。深夜の1時頃となり、彼女をタイムズ・スクエアのホテルまでタクシーで送っていき、それから42丁目駅より "A "トレインのアップタウン行きに乗車した。その時、まだ意識がしっかりしていた。絶対に寝たら駄目だと思い、自分を叱咤激励しながら英語の小説を取り出した。車掌のいる中央部の車両であり、まだ、車内には4分の1位の乗客がいたので安心した。デーバックを背中に背負い、ジャケットと Gパンという格好であった。いつもの習慣でズボンの右ポケットにはサイフをしまっておいた。サイフの中身はクレジット・カードと自動車免許書、万が一、このニューヨークで事故などにあって死んだらヤバイので日本の家族の写真を入れておいた。そして、現金80ドルとコインの小銭3〜4ドル分がはいっていた。左側のポケットは空だった。この夜、No.1トレインの方がアパートに近いが、こんな時間なので少しでも早く帰ろうと急行 "A"トレインへ乗ったのだ。車内は心地よいヒーターの暖房がまわり、適度の揺れと振動で、しだいに前後不覚となり泥酔の境地へと一気に堕ちてしまった。いつの間にか爆睡してしまったのだ。かすかに車内放送の「191ステーション」が聞こえた。電車が金属的な悲鳴をあげて急停止して、少しだけ目を開けると乗客は寝ているホームレス1人しかいなくてドアの閉まる音がした。そっと背後のバックへ手を伸ばしたら、まだあるから大丈夫だと思って、そのまま、また、うとうとしながら次の駅で乗り換えて2駅戻ればいいやと思った。また電車が狂暴に急ブレーキをかけ、プラットホームへ静止しないうちにドアが開いた。やばい、日本の電車みたいにゆっくりと止まってくれない。下車する人がいないと分かるや否や開いたドアは瞬間に閉まってしまうのだ。すぐ降りねばとだるい腰を浮かし、よろよろしながら立ち上がった。その瞬間に1セント、5セントや25セントのコイン類がバラバラと音をたてて靴の上や電内のフロアーへ無数に飛び散った。「ウォー!」。それでズボンの上からサイフを探ると無い。「ヤバイ!」パックリとGパンが切られている。冷水をかけられたように、アルコールで朦朧曖昧な意識が一変で醒めてしまった。一瞬パニくった。這いずり回りながら急いで25セント2個だけ拾って下車した。ともかく、地上へ出た。もろに凍てつくような寒風が切られたズボンよりじかに太腿へ当たり、物悲しい感情がこみあげて来た。異国でわびしくなり、センチメンタルとなり、涙がポロポロとこぼれてきた。通りの店舗は頑丈な鉄製シャッターを降ろしている。時折、パトカーが通過するくらいで、深夜の誰もいないブロードウェイをダウンタウン方面へ、ガックリと肩を落としながら半時間も歩いて、やっとアパートへ着いたのは夜中3時であった。その日とその前の日のバイトの金が全部盗まれたのだ。クレジット会社だけはすぐ電話したが、警察へ届けても面倒だし、自分の不覚なので通報しなかった。また、ズボンを新しく買わねばならないし、生活もして行かねばならず本当に落胆した。地下鉄ではホームレス以外に寝る人はいないが、自分は寝てしまったのだ。ドジであった。後の祭であった。
 それにしても、家でその Gパンを脱ぎよく調べてみるとサイフの入っていた方のポケット部分だけがパックリと切られている。よく新聞に出ているようにギャングが所持している大型ナイフ「007」であろうか。あるいは、ドイツの高級品「ゾリンゲン製ハサミ」でやられたのか。ともかく、厚い Gパンの表布地からさらにその下のポケット生地まで30センチぐらいの長さできちんとL型に切られている。それはサイフだけを抜き取るプロの仕業にちがいなく、高度に熟練した専門技術によって裏打ちされたものだ。諺でも「泥棒も10年」とある。それより、自分は太腿にカスリ傷一つ負ってない。これぞニューヨークの地下鉄泥棒の真諦である。親切丁寧にも犯人はカモの状態を判断して大胆沈着、悠悠閑閑に対処したのだ。もしスリ最中に気がついたら、相手は凶器を持っている。腿を切るか、最悪の場合、殺すかもしれない。危なかった。今思うと心臓はドキドキするが本当に泥酔して命を助けられたのだ。アイリッシュバッカス神が加護してくれたのだ。
 ニューヨークの犯罪率は低くなったとあるが、それでも、ちょっと気を抜くとすぐ泥棒や強盗にやられる。作家の故開高健氏いわく、「人を見たら泥棒と思え、というのはいつでもどこでも通用する慣用語であろうが、ことラテン・アメリカでは1日も忘れてはいけない生活訓である。悪いのは盗むやつではない。盗む気を起こさせるやつが悪いのだ」という。
 そういえば、ここは俗称「ヌエバ・ヨーク」である。
「ニューヨーク、一度あることは十度ある。」@ニッパー中山
(1996年3月15日)