What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

ニューヨーカーへ寿司を広めた日本人柔道家「大石四郎」のアネクドート!

文・ニッパー中山
イラスト・シュン山口

「この国の主婦の作る料理とは、ただ缶詰を缶切りで切ることである。」アメリカの主婦の料理学説より。

今ではニューヨーク市民820万のうち、たいていの人々がテリヤキ、テンプラ、スシ、サシミ等の単語は知っていて、厳格な戒律のある宗教信者を除いて、これらのジャパニーズ・フードを食べたことがあるだろう。サケ(酒)とソイ(醤油)は17世紀にすでに英語になったが、SUSHIはいつから英語の市民権を獲得し、広く一般のアメリカ社会へ浸透したのか?今日のニューヨークの寿司屋をのぞいてもそれこそアフリカ系からアジア系までスシ・カウンターやスシ・バーでつまんでいる光景が日常茶飯事見受けられる。また、テイク・アウトのスシ店まであり、プラスチックの折箱をさげて帰宅するアメリカ人の姿も珍しくない。だが、その昔といっても、つい20〜30年ぐらい前まで、日本びいきの人かグルメ以外にこの国の人がスシを食べるのは超レアであった。
 まず、日米食交流史を通観してみる。ジャパニーズ・フードは、当然、日本移民と共に携えられて進出した。だが、お客へ食を提供する日本食の食堂として出現したのはいつごろであったか?ハワイをのぞく本土で最初の日本料理店は1887年に開業したサンフランシスコの「大和屋」といわれている。ニューヨーク最初の日本レストランは1910年に西56丁目に開店した「都」である。続いて「末広」、コロンビア大学近くの「安芸」の3軒が第二次世界大戦直後にあった。1962年頃、アメリカで最初にロスのリトル・トーキョーの「川副」料理店がネタ・ケース付きのスシ・カウンターを作り、お客の目の前でスシを握った。つまり、祖国の寿司屋とまったく同じ形式である。70年代より肥満からスリムを合言葉に低カロリーや低コレステロールに関心が集まり日本食ブームが起きた。なかでもスシが一番もてはやされた。その結果、アメリカ中にスシ・メニューのあるジャパニーズ・レストランが出現し、ついに、コリアンやチャイニーズ・レストランまでもスシをメニューに追加して、今では全米のどのスーパーでも売られている。
 荒俣宏によると、元来、スシのルーツは東南アジアである、という。松本紘宇著「ニューヨーク竹寿司物語」(朝日新聞社)によると、アメリカで最初に寿司に目をつけたのは、日本へ行ったり日本と取り引きのあるアメリカ人は別としてヒッピーたちであろうと思われる、とある。つまり1960年代にこの国の科学文明・物質文明を拒否して「自然へ帰れ」をモットーにした運動が起こった。その彼等ヒッピーにとって自然の生の素材をそのまま提供するスシは何よりも理にかなう食であったからである、という。98年1月の週刊雑誌「スパ」の四方田犬彦のエッセイによると、日本文化に関心を持った白人のインテリかヤッピーからスシが広まった、とある。
 マンハッタンのトライベッカ−に「OISHI JUDO SCHOOL」という旗がなびいている。そのビル地下2階は広いロフトで、大石柔道道場である。正面の壁には「精力善用」額と日本の柔道の創立者嘉納治五郎の肖像写真が飾られている。中肉中背の大石先生は格闘者特有のカリフラワー耳をしている。日本人ばなれした風格は映画俳優としても活躍している。1964年、東京オリンピック年、全米アマレス選手権大会の日本代表として渡米し、その後、全米柔道チャンピオンとなって自分の道場をもち、以来35年に及ぶ。これまで数万人が入門しては消え、やっとアメリカ人へ心技一体の柔道精神を伝授する自信がついた、という。
その大石氏は寿司といえば苦い経験が2度ある、という。1回目は、まだ、ニューヨークへ来て日の浅い頃であるから1967年ぐらいであった。当時、ニューヨークの日本料理店の数も、僅か、20軒程度であった。ある日、いつものごとく道場の稽古が終わり入門まもない白人の生徒から声をかけられた。彼はべトナム戦争帰還兵で日本へ駐屯していたとき柔道を始めたのだった。その彼が「 Well, Sensei, I’ll have a sushi party at my home next week. Please, come.」と招待を受けた。生徒からパーティーへ誘われることはよくあることだがアメリカ人の生徒から日本食スシ・パーティをもてなされるとは珍しい。誠に、殊勝なやつだと先生はいたく感心し、喜んで「OK」した。
郊外の家を訪問した。この国の習慣にのっとり各部屋を案内してくれた。当時、日本の主婦にあがめられていた「三種の神器」のそれも大型のテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が置かれていた。奥さんは台所で一生懸命に料理していた。典型的なアメリカの家庭らしく週末は夫婦そろって車でスーパーマーケットへ買い出しに行くのであろう。台所の棚には数多くのバンビー印やキャンベル印の缶詰が並べられていた。やがて料理が運ばれてきた。アペタイザーのサラダだ。「It is very delicious! I am O-i-shi.」とジョークをまじえながらゲストとしての感謝の念を表した。彼もワイフの料理上手を絶賛した。これなら美味しいスシが出てきそうだ。先生はお腹が空いていたのでスシが待ち遠しかった。いろいろ空想した。多分、日系のオリエンタル・マーケットあたりからネタを仕入れてきたのであろうか?やがて、「Sensei, we’ll serve you a main dish!」と告げられた。大きなトレイの上へ載せられてスシが運ばれてきた。「Sensei, my wife made specially for you. Please, eat a lot!」という。「エッヘン!」とせき払いの一つでもして先生の威厳を保ちながら、さて、チャップスティックでつまもうと、テーブルの上へ目を投げかけた。その一殺那、我が目を疑った。コレは何だ???そのキッチュ感覚に呆然驚愕&自失茫然となり、あやうく失神するところであった。つまり、マグロはマグロでも、、、、あのスーパーなら何処にも売っているマグロ缶詰のやつである。よく、家庭やデリでツーナ・サンドウィッチを作る時に使う水煮のツーナである。それを、ようするに、ただ缶詰から取り出して「ドカーン!」と親指大のご飯の上へのせただけの代物である。それが10個ぐらい並べられている。「Sensei, don’t be shy, please, eat all of them!」という。「We can make more!」、という。オイオイ、、!トホホを通り越して絶句してしまった。何とか水で喉を通して一個だけ食べた。そして「I remember something. I have to go!」といって、その場を何とか取り繕った。ホスト側には「Why Sensei doesn’t eat such delicious sushi?」と怪訝な顔をされたが、本当のことは言えなくて、ほうほうの体で撤退した。ともかく、これは神・仏・キリストに誓っても断じて我々日本のスシとは月とスッポン以上の差である。
 帰りの電車のなかで深く感慨にとられた。まことに砂を噛むような前代未聞の経験であった。これは誤解もはなはだしい。私はまがりなりにもアメリカで日本の一文化を教えている者である。いわば私も一介の民間大使だ。日本文化がお肌の曲がり角以上に360度以上曲解され、間違って伝播されるのは日本人としても忍びない。しいていえば今後の日米文化交流史に汚点を残しかねない。それほど予算はないが、ここは遠山の金さん的に一肌脱いで、アメリカ人生徒達へ本物の寿司を振る舞ってあげようという親心里心がわき起こった。さいわいに、当地の寿司の鉄人を知っている。新年の道場開きパーティのとき、生徒の前で握ってもらい、大盤振舞をしてやろう、と思いついた。

鏡開は生徒が大勢の友達や家族などカンパニーを連れてきて、広い道場もいっぱいになり友誼に満ちてた。中央にビール樽とテーブルが置かれ、crab(蟹)や sea urchin(海胆)や貝類や大きな魚が運びこまれた。鉄人が黙々と一匹のナマ魚から身を切りおろしていった。一般にこの国の魚屋では骨の付いた魚は売っておらず、すでに切り身にされている。まして、シーフード・レストランのメニューに骨の付いた魚は絶対にない。よって外人たちは固唾を飲んで神妙に眺めて、生魚はいやな臭いがするのではないか?そんなのを食べるのは気持ちが悪そうだという嫌悪の念に囚われていた。血のしたたる生のステーキやタルタル・ステーキは食べるくせに、クッキングしてない生魚はより非文化的な、より不衛生的なものと看做しているのだ。次々と、Tuna(マグロ)、Salmon(鮭)、Yellow Tail(ハマチ)、Mackerel(さば)、Fluke(ひらめ)、Snapper(たい)のスシが握られて、大きな Octopus(タコ)のときは恐怖の「キャーア!」というどよめきが起こった。ある人の顔がこわばった。西洋古代神話よりタコはヌルヌルした薄気味悪い動物で、吸盤は人間の血を吸うと信じられ、また、その形態から陸上の蜘蛛を連想されていた。だから、こんな悪魔のような海の動物を食べるなんて神への冒涜だと思い至らせた。最後に巻き物の黒い海苔が広げられた。海苔は英語で Sea Weed(海の雑草)だから、雑草は家畜の飼料であり食べられないと思われている。また、万が一食べたとして紙のよう海苔はアゴへつき一生剥がれないのではないかと恐れおののいた。
やがてテーブルへ見た目も鮮やかなスシがきれいに盛り付けられ、百宝色の海の幸が豪華豪奢に盛られた。「Let’s eat!」と先生が口上し、生徒やゲストへスシを食べるようにと促した。だが、生徒たちは怪訝な顔をして、ただ、遠巻きにじっと見ているだけである。結局、食欲をそそったのは少数の日本人と日系人と少数のアメリカ人だけだった。何トンというにはちょっとオーバーですが、何十パウンドかのスシが残ってしまった。スシはナマモノなので保存が効かない。大石氏もその労がまったく報われず、非常に落胆し、暗澹たる思いにかられた。柔道という日本文化に興味を持って入門した生徒たちであったが日本の味覚までは、まだ、手も足も出なかったのだ。
 それでも、先生は何とか生徒達へ日本の食文化の真諦を教えてあげようと、次の年も同様に寿司パーティを催した。前年に比べ、ちらほらスシを食べる人が増えた。それが今では我先にと手を出して一秒間でスシは、全部、無くなってしまう、と大石先生は苦笑いしながら、往年の昔に体験したアメリカ人の異文化理解のいちエピソードを懐旧する。一つの事物が他国で伝播受容されるにはいろいろのルートがあるだろう。まことに異なる文化の接触、混淆は言語学者や文化史家でなくても興味ある問題であるが大石柔道道場がニューヨーカーに与えた食文化の影響はまことに大きいと言わねばなるまい。(1999年10月10日)