What's new? New York! ニッパー中山 & ケイジ中山のブログ

NY在住?0年のライター&カメラマンがハードコアな三面記事などを紹介。

Naked Body 写真集を出しました。

Urban Landscape
Naked Body
1975-1994, New York City

上のバナーをクリックすると iBooks Store に行けます。そこから私の写真集を手に入れることができます。無料です。

本の説明:
英語で Body (ボディ)は自動車の車体でも女性の体でも同じ表現である。 アメリカは1980年代にはすでに車社会で、全所帯の95%が車を所有していた。その頃、 この国の犯罪はピークに達していて、ニューヨーク市内では5分に一台の割合で車が盗難され ていた。その数は1980年に10万900件に登っていた。そこら中に盗難車が溢れ、まる でネッケド(裸)にされた女体のごとくエロテックに写って見えた。

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プロレスラー、マサ斉藤先輩との思い出!

先日、日本からの一通のメールでマサ斎藤先輩の死去を知り、色々な思い出が頭を駆け巡った。

私がアメリカのプロレス・マスコミに入ったのが80年代始めで、マサさんが81年にニューヨークのMSGが本拠地のWWF(現WWE)へ参戦してきた。当時はまだ、MLB (メジャーリーグベースボール) にさえ日本人プレイヤーの入団が難しい時代で、アメリカ・メジャープロレス団体WWFでは60年代のジャイアント馬場以来の日本人の入団を果たした偉業であった。口八丁のキャプテン・ルー・アルバーノをマネジャーに得て、ミスター・フジと日系悪役タッグチームを組みミスター・サイトーと名乗って暴れまくり、その胸板の厚さと肩筋肉の凄さで観衆を圧倒して、日本人として初めてWWFタッグチーム王座に就いた。当時、ニューヨークより1時間の距離のコネティカット州にアパートを借りて住んでいてフジの運転で東部一帯を駆け廻っていた。月1回のMSG定期戦が開催され、登場の都度、取材に行った。ある日、試合前に、分厚い札束の入ったサイフを預かった。試合が終わりシャワーから出てきたマサさんへサイフを渡すと、もう、ここWWFでは超売れっ子で年間380試合をこなし超多忙で、銀行に預けに行く時間がなくて、現金が溜まる一方だと言うことだった。

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まみさんが絵本第2作目を出しました。


まみさんが絵本の第2作目「ママのガーデニング」を iBooks Store に出品しました。上のアップルバッジをクリックして行くと手に入りますので、ぜひご覧ください。無料です。

本の説明:農薬を使わない環境を考えたガーデニングをめざした虫撃退法。ママの奮闘記を子供目線で絵本として書きました。

ナメクジ、コガネムシ、カミキリムシ、ハマキムシ、チャドクガクロウリハムシ、ハマオモトヨウ、アブラムシ、アリ、ミミズ、アマガエル、テントウムシ、シロアリなどが出て来ます。

マック以外では見られないです。ウィンドウズをお使いの方には PDF ファイルをお送りすることができますので、
http://mo2274.wp.xdomain.jp
サイトの中の ContactMe からメールアドレスを記入の上お知らせください。
英語版でも近く出品する予定なのでそちらもお楽しみに。

ニューヨーク市内で最大のクリスマス・デコレーションが見られるブルックリン「ダイカー・ハイツ」地区を訪問!















去る12月17日、気温が五度と非常に寒い週末に地下鉄D線でマンハッタンからブルックリンに出かけ18Av駅で下車した。そこはヴェラザノ橋とイタリアン地区ベンソンハーストの間で、スパニッシュのスーパーやお店がたくさん並んでいる。4ブロック西に歩いて、目指すダイカー・ハイツ地区に到着した。ここはイタリア系の居住地で、大きな一戸建ての裕福な家々が立ち並び、それぞれの家の庭には沢山の綺麗なクリスマス・デコレーションが施されている。大きな袋を提げたサンタやトナカイを走らせているサンタや映画のキャラクター等、新しいのは雪だるまのオラフまでいた。夜には電燈がともるイルミネーションがあり、より一層、きらびやかでしょうね。時より観光客も見かけて、一時間かけて散歩して目を楽しませてくれました。

ここのことは観光ガイドをしていた友人に聞いていて、日本人の人たちをよく案内していたそうです。だいぶ以前からあの辺りのことは有名で、毎年趣向を凝らすのを楽しんでいる人もいると思いますが、有名になったからこそやめられなくて困っている人もいるんじゃないかと思ってしまいますが、どっちにしても大変でしょうね。2−3軒は大掛かりな飾りを拒否?しているようですが、でも一般家庭並みの飾り付けはありました。

今年もクリスマスがやって来たあ。


今年のクリスマスの飾り付けがもう始まっています。
それにしても毎年のことですが人が多いですね。
食料の買い出しのついでに、頼まれたので渋々ミッドタウンによってクリスマスの写真を撮ってきました。
でも頼んだ写真がないと機嫌を悪くされています。
長年ニューヨークに暮らしていますが、こんな写真撮ってこなかったです。
ロックフェラセンター前の Saks Fifth Avenue は毎年ゴージャスな飾り付けしています。







お馴染み、ロックフェラーセンターのクリスマスツリーです。
毎年良く似た飾り付けですが、どこか違っているのでしょうか。私には分かりません。

私の「名伯楽、大剛鉄之助をカナダ・カルガリーに訪ねて!」記事が週刊プロレスより出ました。



2010年カルガリー大剛鉄之助にインタビューを行った時の記事です。15日発売の「2017年12月5日号増刊 週刊プロレス」に掲載されましたのでお楽しみください。

大剛さんの死亡に心よりお悔やみ申し上げます。

伝説の「トーキョー・ジョー」こと大剛鉄之助の不屈なレスラー魂!

北米の花形プロレスラーからハンディキャップへ、一瞬にして変わった男の執念は名伯楽となった。


角界からプロレスへ
 日本の昭和60年代を象徴するキー・ワードに、「巨人・大鵬・卵焼き」があった。強い野球の巨人軍と子供の大好きな卵焼き。それと、国技「大相撲」界で「大鵬」が数々の記録を破り大横綱になり、時代のキャッチフレーズとなった。大鵬の所属する名門二所ノ関部屋では、横綱が場所の土俵へ登るつど若い力士が七人がかりで土俵縄をしめるのが日課であった。その中に「仙台幸弘」(本名、栄田幸弘)がいた。後にその将来の素質を有望視され、大鵬の付人にまでなった。
 小さい時から腕力と腰はめっぽう強く、中学校時代から早くも相撲や柔道にズバ抜けた才能をみせ、宮城県はおろか東北中に知れ渡った。
 中学校の卒業式が終わるや否や、相撲取りになりたく故郷仙台から東京両国の二所ノ関一門湊川部屋に入門した。当年16歳であった。
 冬の日でも早朝三時に起床し、プロの苛酷な稽古が毎日続き、殴られるのは覚悟して入った世界であったが、シゴキはハンパではなかった。しかし、持ち前の雑草のような根性と忍耐力でつらぬいた。そして、入門以来、順調に勝ち進んだが、それに反して、いくらチャンコ鍋を食べてもいっこうに体重は増えず、91キロの小兵であった。それでも8年間角界に在籍し、最高は十両幕下二枚目まで昇進し、高見山とも対戦して一勝一敗の成績を残したが、自分の体重の不足を自覚し、あっさりとマゲを落として、その足で第二の人生「プロレス」世界へと飛び込んだ。

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